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Absolute Lord

1. 龍恋歌



花を見る 心はよそに 隔たりて
身につきたるは 君がおもかげ

目の前で花が散り、緑が萌える景色の変わる様を見ながら過ぎるのは、過去の邂逅。
そうそれは遠い過去。
遠い、遠い――昔話。


◇  ◇  ◇


アレは人の世界が好きで、よく一人で降りてはその景色、季節を楽しんでいた。
『今日も良い天気ですね、竜神王様。』
記憶の中の人が振り返る。薫風を受けて、鳶色の長い髪が柔らかに揺れた。
温かい日差しに気持ちよさそうに目を細めて微笑む姿を、今でも覚えている。

『本当に、綺麗な世界……。いつ来てもここは眺めが良くて、風が澄んでいて……私、大好きなんです。この場所と、この世界が。』
『そんなに人の世界が好きなのか?』
そう問えば。
アレは、こくりと頷いて静かに笑んだ。
全てに慈愛を向け、全てを愛する者だった。
絶対の、慈母。
それはこの我ですらも敵わない。

『ええ。愛しています。』
そう言って肩に掛かる艶やかな髪を、そっと優しく指先で払い、青天の空を仰ぐ。
『そなたは、まるで女神のようだな。』
つい思ったことを口にすれば、相手は目を丸くし、それから片頬に手を添えて微笑する。
『まあ、そんな。恐れ多い。』
穏やかに謙遜する姿でさえ、美しかった。
悠久という刻の中での、一瞬間の思い出だが、それは今でも鮮明で近く焼きついている。
この瞬間がずっと続けば良いと、そんな愚かなことさえ思っていた。
けれど現実は突然で。

アレは唐突に、この世界から去っていった。
自ら愛したヒトと共に。
そうして遺されたのは美しい思い出と、ちっぽけな竜の王。
何故アレの恋路を許さなかったのだろう。
認めてやれば、アレは此処に居たかもしれないのに。
もっとも、その隣に我が立つことはもう無いのだろうが――けれど、それでも。

この世界からいなくなる事は無かったはずだ。

「……ウィニア。」
謝罪の言葉を口にするだけでは済まされない過去。
だから、言の葉にするのはその者の名前だけ。

「……ウィニア。」
どうして、どうして。
喪ってしまってから気づくのだろう、己の過ちに。
それは、まるでヒトと同じ。


◇  ◇  ◇


「また独りで己を責めているのか、王よ。」
気配も立てずに背後から掛かった声に、現実に引き戻された。
そうして肩越しに振り返れば、そこに立つのはアレの遺した唯一の形見。

「……エイト。いつから、そこに?」
そう尋ねれば、エイトはどこか不敵な微笑を浮かべて言い返す。
「今だ。別に覗いていたわけではないぞ。」
「……いや、別に見たことを咎めるつもりは無いのだ……。ただ、我は――」
「俺の母のことを想っていたのだろう? 邪魔をしたな、すまない。」
「そなたが謝罪することではない。……構わぬ。」
その言葉にエイトが苦笑し、距離を詰めると隣に立ち並ぶ。
そして両腕を組んで、口を開いた。

「それはそうと――良い天気だな、竜神王。」
『今日も良い天気ですね、竜神王様』
声が、過去の情景と重なった気がした。
思わず隣を見遣れば、相手が目線だけを向けて微笑する。
「――ん? 何だ、どうした?」
そうして首を僅かに傾げて窺う様が、強い面影を残して映る。

おまえはそこに居るのか、ウィニア――……?

「……っ。」
惹かれるままに手を伸ばし、そっとエイトの頬に触れれば、相手が愉快そうに笑って言う。
「何だ? 何を甘えてみせるのか。……ああ、そうか――。」
触れた手に自身の手を重ね、エイトは言い掛けた言葉を止めた。
ただ目を閉じ、静かな声で告げる。
「……仕方ない。暫くこうして側に立っていてやるか。王よ、お前の気が済むまで……な。」
それを聞きながら、竜神王はエイトの身体を引き寄せ抱きしめた。

触れたかった女神は、もういない。

それから後に、エイトが溜め息のように静かに何か言葉を吐いたのだが、既にまた遠い記憶に意識を寄せている彼に、それが届くことは無い。
エイトが視線を周囲のどこかへと投げ、目を伏せて息を吐く。

「……死んだ者を想うなとは言わない。けれど王よ、気づいているか? 色褪せし過去で止まった心のままでは、何時か過ちを犯してしまうだろうことを。」
身体を抱き締める力が強くなった。相手は過去の一片を思い出し、また何かしらの後悔か懺悔でもしているのだろう。
見えない贖罪の十字架に向かって。
形のないものに縋って。
エイトが眉根を寄せ、吐くのは諦観の溜め息。

(俺は俺で、母ではないのだ、と……――あの時、そう言っただろうに。)
遠い過去――箱庭の頃。
触れる前に告げた言葉は、やはり届いていなかったかとエイトは嘆く。
子供のように縋る偉大なる竜の王の抱擁の中、今だけはその傲岸不遜な様を潜め、目を閉じた。

青天の中、龍は遠い夢を抱き思い出に寄り添う。
腕の中に閉じ込めるのは、形代の面影。
過去の色彩を映した幻。

そのものが形取る言葉には耳を傾けないままに、龍はただひしと思い出だけを抱き締める。


龍は互いに遠き夢を抱いて眠る