Daily Life *M 【1】
雨の朝に詠う
雨の音がする。どこか遠いところで。
音の細かさからして、そう大して降ってはいないな、と思いつつも目を覚ました。
だって、もう少しでココから出て行かないといけないから。
完全に日が明ける前に帰るという約束なのだ。
ならば雨が小降りなうちにしたほうが良い。
寂しい心に、土砂降りの雨は辛いから。
◇ ◇ ◇
「……はぁ。」
ゆっくりと上体を起こし溜め息を吐けば、側に居たんだろう、マルチェロが笑う気配がした。
「何だ、手加減はしたつもりだがな?」
「……そんなので溜め息を吐いたんじゃないです。」
やや前髪を掻き揚げてムッとした表情で睨むも、相手は余裕の笑みのまま手にしたグラスを傾けると、その中身を一口飲んで言う。
「ふ……ん? そうか。ならば、手を抜くのでは無かったな。」
愉快そうに、くつくつと。
口端を上げて笑うそれは、人によっては不愉快な嘲りに見えるだろう。
けれど悔しいことに、それにすら見蕩れてしまう自分がいるのだからどうしようもない。
――惚れた弱み、と、人はそう言うんだろう。
「……はぁ。」
……俺は阿呆だ。くそぅ。
赤くなった顔を隠すように、髪を梳いていた手で覆いながら立ち上がる。
とっとと着替えて帰ろう。そう考え、椅子の背に掛けた服に手を伸ばす。
――と、そこで横から伸びた手に止められた。
「……何です?」
「今朝はまた、えらく急ぐのだな?」
マルチェロはそう言うと、手にしていたグラスの中身を一気に呷って空にし、近くの小テーブルの上に置いた。
コン、と僅かに強い音がした。
「そりゃあ、まぁ。」
雨が、降ってるから。
目を逸らし窓の外を窺えば、雨は少し勢いを増したようだ。
窓に当たる水滴が、明確な形を作っている。
これは早く帰らないと、濡れるな。
例え傘を借りて差しても、風がきっと無駄にするだろうし。
――と、ぼんやりと考えている時だった。
「何を考えている。」
ぎり、と捕まれた腕に力が篭った。
爪は立てられていないようだが、それでも痛みは充分で。
視線をマルチェロに戻し、顔を顰めてエイトが言い返す。
「何っ、て……帰る算段をしてるんですよ。ちょっと、手……痛いんですけど。」
「帰る算段、か。そんなに早く帰りたいか?」
当たり前だ。
窓の外、強くなる雨音。
それに比例するように、掴まれた箇所の力も強くなる。
早く帰らないと。
雨で、濡れる。
「マルチェロは、これから礼拝堂で教義を揮う仕事があるんでしょう?」
俺が居ても、仕度の邪魔になるだけだろう?
「それにいつも、早く帰れと言ってたじゃないですか――貴方が。」
本当は、側に居たい。まだ、隣に居たい。
でも、お前が帰れと言うんじゃないか。
早く、帰れって。
だから。
「早く、帰らないと――」
……未練が、強くなる。
「そうか。では、早く帰れ。」
そんな素っ気ない言葉と共に、腕の力が緩んで離れた。
マルチェロはまたグラスに飲み物を注ぎ、あおりだす。
呆気ない反応。
「言われなくても、帰ります。」
ムッとしたまま背を向けて、シャツを着た。ふと胸元に視線を落とせば、解けている紐が目に入った。
ああ、これも整えないと――。そう思いながら窓の外に気を向ければ、静かな気配。
雨が、止んだ?
……急ぐ理由が、無くなった。紐にかかっていた指先が、ぴたりと止まる。
何で止むんだよ。
「……はぁ。」
思わず吐いた深い溜め息は、当然ながら静かな室内でやけに大きく聞こえ。
「また、溜め息か。今度は何だ。」
背後で呆れたような、うんざりした様な声。
何だか悲しくなって――苛々した。
「……。」
「エイト?」
鈍感!
「……恋ひ恋ひて 逢える時だに愛しき 言尽くしてよ 長くと思はば……。」
「……。」
思い余ってぶつけた言葉は、何時か城の書庫で読んだ古い歌だ。
どうせ、解らないだろう。
――……それで、いい。
そんな、せめてもの皮肉を意地悪を込めて言い放ったつもりだったのだが――……。
「――……涙もつ 瞳つぶらに 見はりつつ 君悲しきを なほ語るかな。」
「……っっっ!?」
返された言葉に、ぎくりとして振り返ると、マルチェロが苦笑して言った。
「ほら。まさに、歌のとおりだな……黙って泣くな、馬鹿めが。」
「え、な、何、何で……っ!」
涙で滲む目元を押さえながら狼狽していると、マルチェロが口端を上げて言う。
「私が知らないと思っていたか? それら歌に関するものを。気づかぬとでも思っていたか? お前の意図を。……鈍いのはお前のほうだ、阿呆。」
「う、……っ。だって……!」
早く帰れって言うから!
非難の瞳を向ければ、相手はふうと溜息を吐いた。
「お前が紛らわしい行動をとるからだ。」
「ま、紛らわしいって……そんなこと、してな」
「――お前が早く帰るのは、アレの為だと思ったのだ。」
「……アレ? え、それ……って……」
アレとはククールのことだろうから、つまり――。
「もしかして、妬いてくれたんですか?」
駆け寄って問いかければ、マルチェロは鬱陶しそうに目を逸らした。
そのまま沈黙する。けれども、その横顔。微かに照れている耳の朱を見逃すわけも無く。
「じゃあ、じゃあ……!」
窓の外とマルチェロを交互に見ながら、エイトが言う。
「もう少し、側に居てもいいですか――……!?」
子供みたいに笑いながら、相手に強請る。
その答えは、雨の音共に。
day after day
【補足】
■エイト「恋ひ恋ひて逢える時だに愛しき言尽くしてよ長くと思はば」
恋して恋焦がれてやっと逢えたその時くらい、貴方の持っている優しい言葉のありったけを、私に下さい。いつまでも一緒に、と思うのでしたら。
■マルチェロ「涙もつ瞳つぶらに見はりつつ君悲しきをなほ語るかな」
涙に潤んだ目を大きく見張りながら、貴方はなお別れの悲しみを語って聞かせるのですか。私にはもう、よく分かっているというのに。