蒼空ショコラトリエ
Le ciel chocolat 2
「あ。見つけた。」
聞き覚えのある声がした。
顔を上げ、声のした方を振り向いたテリーはそこで彼を見つける。
「エルド……。」
王子様は、仕立てのいい服を着ていた。遠目からでも分かる、王族の風格を身につけて。
「エル、……、」
言葉が喉につかえる。コチラに向かって歩いてくる彼の足取りはどことなく優雅で、山奥の青年の香りは微塵も無い。
人は外見だけでこうも変わるのか、と思う。
――あれは、誰だ?
つい先ほどまで砕けた口調で話しかけていたその人だというのに、いま目にしている青年は、自分が全く知らない人間のように見えた。
――お前は、誰だ?
テリーの表情が歪む。砕けた口調で気安く話しかけてくる村育ちの青年は、ドコへ行った?
「テリー? どうした、何、か――……」
反応のない相手に訝しんだエルドが口を開くも、そこで言葉が途切れた――次の瞬間。
「テリー……ッ!」
「――!?」
エルドが血相を変えて駆け寄ってきたので、ぎょっとする。彼の王子様はテリーの目の前で片膝をついて屈み込むと、驚いているその剣士の右手をとって視線を落とし、叫んだ。
「どうした! 怪我してるじゃないか!」
「え、あ……」
「モンスターか? それとも盗賊か?」
「いや、コレは」
「なに手当てもしないで……って――んん? 傷は浅いのか。」
「あのさ、コレ」
「ん、大丈夫だって言いたいんだろうけど、ちゃんと手当てしとかないとダメだろ。ほら、動かないで。」
説明しようにもエルドが矢継ぎ早に喋るので、テリーは何も言えずにされるがままになっていた。
軽い、しかも自分の不注意からの切り傷だというのに、エルドは分からないのだろうか。それどころか、まるで自分がしたような顔をして、傷の手当てをしている。
エルドが集中しているのは、テリーのみ。その服が、裾が、地面について汚れるのには目もくれず、ポケットから出した薬を手に、テリーの傷の具合をみている。
「……服、汚れるぜ。」
そっと、口に出して言ってみた。エルドはというと、テリーの視線の先を一度ちらと見ただけで「ん。大したことじゃない。」と、また手の傷に目を戻しただけ。
その反応に、テリーは何故かムキになる。
「良くないだろ。高いんだろ、ソレ。」
「俺がいま心配するのは服の汚れなんかよりも、テリーだよ。ああもう、ほら。終わるまで動くなって。」
消毒し、薬を塗りながら喋るエルドは淡々としていた。綺麗な格好をしているのに、そちらには一顧だにしない。
(王子サマがそんなことしちゃダメだろ……!)
立場が逆だろ、と言いたくなる。
まともな身分も無いただの剣士に、王族が膝をついてどうするんだよ。こんなの違うだろ?
今のお前は、俺よりも身分の高い人間なんだぜ、王子サマ?
テリーが皮肉とも自虐ともとれる言葉を心中で吐いてエルドを見つめていれば、不意に相手が小さく声を上げた。
「あ。」
「ん? どうした?」
「いや、薬を馴染ませるために包帯を巻いておきたいんだけど、忘れてきた。」
「……そこまでしなくていいだろ。手当てが終わったんなら――」
――離せよ、と手を振り払おうとしたテリーは、相手の取った行動を目にして動きが止まることになる。
布を裂く音がした。エルドが護身用のナイフを取り出したと思ったら、自ら服を切り裂いたのだ。
「お前っ……なにやって――っ!」
焦燥したテリーに、顔を上げたエルドが返したのはにっこりとした笑み。何の躊躇いも無く上質な布地を太い帯に変えると、それをテリーの手の平に巻きつけながら言った。
「よし。簡易だけど、これで大丈夫だ。」
「そ、……んなことよりっ……!」
「んー? ああ、一応それなりに清潔だぞ?」
「……!」
何でそうトンチキなことばかり言うんだお前は!
テリーは、はくはくと口を開閉させるも、かけるべき言葉が多すぎて何も言えなくなっていた。
王子さまはナイフを仕舞いながら「まあ大きな怪我じゃなくてよかったよ。」と言いのけ、依然としてにこにこを絶やさない。綺麗な服なのに汚して、上等な布地を惜しげも無く切り裂いて。
「お前……お前は!」
「ん?」
身分を弁えろよ、頼むから!――そう叫ぶ代わりに、テリーはエルドに抱きついていた。その肩に顔を埋めるようにして無意識に――甘く縋りつく。
◇ ◇ ◇
(さーて。どうしたものかなー。この甘えたさんは。)
青い空を見上げながら、エルドは心の中でそんなことを呟いた。今なおエルドの肩口に顔を埋め、ぎゅうとしがみついたままのテリーを一瞥する。母親とはぐれた子猫のように見えるのは、ひしとエルドの服を掴んでいるせいか。
(テリーって、馴れ合いみたいなのは嫌いなタイプだと思ってたんだけどな。)
空に視線を戻したエルドは、テリーと初めて出会った時のことを思い出す。
ある時から行く先々で会うようになり、その度に不敵な笑みを浮かべて、常にコチラを出し抜いていた青年。その隣はいつも空席で、肩を並べる人――仲間らしきものは、見当たらなかった。
孤高の剣士。青雷を思わせる剣捌きは見事だったが、影に危うさがちらついていたので気になってはいた。
やがて線は交差し――剣閃を合わせ――繋がったのは絆。
彼の隣は、空席ではなくなった。血縁を見つけたので。
一人でいたから独りが好きなのだと思っていたコチラの予想は、外れていた。……独りでいるしかなかったのだ、と知るのは、それから後のことだ。彼と彼の姉の故郷を訪れて、おおよその過去を識ることになってから気づかされた事実には、なんとも遣り切れないものがあった。
(俺も……あの子を失ってから暫くは独りが怖かったな。)
エルドは目を閉じ、瞼の裏に妹を思い浮かべる。ライフコッドの暮らしの中に居た少女ではなく、小さな花のように散ってしまった幼い妹を。
(ひとりは……嫌だった。)
テリーの背中を撫でていたエルドの手はいつしか止まり、抱きしめ返す格好になっていた。
「……エルド?」
あやす仕草が変化したのに気づいたテリーが、少しだけ顔を上げた。耳元で囁く形で、声を掛ける。
「俺、鬱陶しいか? ……そろそろ、離れたい?」
「ん?」
テリーが恐る恐る訊ねれば、自分の考えに沈んでいたエルドが目を開けた。内心で燻ぶる靄を一蹴すると、テリーを見返して苦笑する。
「いや。俺はもう少しこうしていたいんだけどな?」
「――っ!?」
「ん、でも、テリーがもう大丈夫なら――」
「大丈夫じゃないっ!」
唐突な返答に、テリーは一瞬ぼうっとしたが、すぐに我に返ると喋っている途中のエルドを遮って叫んだ。
「ふざけるな! お前、自分が何をしたか分かってるのかよっ!」
テリーは荒い口調でそう言ってエルドの襟元を掴み上げると、相手の体を地面に押し倒した。――だが、その強引さはシャツが破れたり、ボタンが弾け飛んだりするほどではなかったが。
「……お前は仲間一人、を置き去りにしたんだ。酷いことされても文句は言えない筈だぜ?」
テリーは、冷たい声で――無意識に甘えが混じっているのには気づきもせず――相手に、そう告げた。
けれど、冷酷ぶっている割にはエルドの頬に触れる手はどこか躊躇いがちで、少し冷たい。緊張しているのだろう。やりすぎて、嫌われるのを恐れて。
熱を帯びた青い瞳に見下ろされた王子様は、苦笑する。
「じゃあ、俺はどうしたら良いかな?」
「……抵抗しないで、大人しくしてたほうが身のためだぜ。」
「んー……それはちょっと困る、というか――嫌だ。」
嫌だ、と口にした途端、テリーがびくりとした。
やりすぎたんだ、と怯えてエルドの頬から手を離す。そして青ざめた顔をして体を引く――その腕を、エルドが掴んで引き止め、言葉を繋げた。
「だって俺もこうやって、テリーを抱きしめたりしたいからさ。」
だから、大人しくしてたら出来ないじゃないか、と言ってにっこり笑えば、テリーが息を飲み、宙をさまよわせていた手を少しの間わきわきと動かしていたが、やがてそれを元の位置に戻して――エルドの頬に触れてから――口を開いた。
「……構わないのか?」
「何が?」
「その、髪とか、服とか……汚れてしまうと」
「あはは。汚れたら洗えばいいだけじゃないか。旅の間、そうしていただろ?」
何をいまさら、と笑うエルドには貴族の威厳や雰囲気は全くなく、それどころか本当に普通の青年にしか見えなくて。
……勝手に線を引いていたのは、俺か。
溜め息を吐いて、空を見上げるテリー。空はどこまでも青く澄んでいる。いま自分が押し倒している人物の髪を思わせるような、晴れやかな色。
「……なあ、エルド。俺――」
その続きは言葉にせず、唇を奪う。相手の唇をこじ開けながらテリーは、口移しで全てが伝わればいいのにな、なんてことを考えた。
空はどこまでも青く澄んでいたが、テリーの目に映っていたのは目の前で穏やかに笑う王子様の瞳だけ。
ただそれだけを見つめ、それに惹かれ――引き寄せ、自分の腕の中に閉じ込めた。