Dear Dragon
8.理不尽な甘露
なんで……っ!
俺が……っ!
――っ、殴られなきゃなんねぇんだぁあっ!
薄っすらと夜明けの青が残る早朝。赤く腫れ上がった両頬に氷のうを当てながら俺は一人、苦虫を噛み潰したような気分でいた。右手に黒パン、左手に氷のう、という傍目には格好悪い状態だが、馬車の中なので人目を気にする必要もない。
とにかく。今日いちにちは、ここに籠城だ。
あ? 戦闘? んなもん、ストだ。ス・ト・ラ・イ・キ!
こんな顔で表を歩けるか! ったく、冗談じゃねぇぞ。
――なぁ、そこのレディ。ちょっと聞いてくれ。
この俺の身に起きた、不条理な仕打ちを。
◇ ◇ ◇
話は昨日の夕食後。日が落ちた頃合。近くに温泉があるのか、その日に泊まった宿には風呂――露天風呂があった。
先ずはゼシカが入り、次に化け……トロデ王とヤンガス。で、次に俺だった。
俺としては最後に一人でゆっくり入ろうと思っていたのだが、エイトが「ククちゃんがお先にどうぞ! 私はりーだーなので、最後なのです! お城でもそーでしたから!」と言って固辞したので、そういう順番になったのだ。
こういう時の”へーしちょー”サマは妙な頑固さを発揮して、絶対に自分の意思を変えない。
仲間を優先し、自分は最後にする。
いつか戦いの時も、仲間を先に(守って)、自分を後にして(盾となって)”最期”となりそうで心配だが、そこは考え過ぎか。……考え過ぎだよな、多分。
そうして無駄な未来予想をすること、しばし。
風呂に行ったエイトがなかなか帰ってきやしねぇので、迎えに行こうかと俺は腰を上げた。そしてドアに手を掛けて引いたところ、ちょうど帰ってきたエイトと戸口の所でぶつかったのだった。
「……あや? ククちゃぁん?」
こいつがもう俺のことを”ククちゃん”と呼んでいることに関しては、敢えて何も言うまい。
というか、観念した。
「おう。遅かったじゃないか。何してたんだ?」
ベッドの方へ連れて行こうと腕を掴んで中に引き入れたところ、エイトはぐにゃりと身体を預けてきた。
「おっと……足がよろけたのか?」
片腕を胸の前に回して、抱えるように支える。
やけに、温い……というか、熱い?
風呂上りにしては少しばかり不自然で、また湯あたりにしては少し様子がおかしかった。それと……ただでさえ甘い声が、この上なく甘くなっているような?
「おい、エイト。お前、風呂行ったんだよな?」
肩を軽く掴んで問いかければ、エイトは顔を上げて、へにゃりと笑った。
「……はぁい。行きましたぁ。」
「……そうか。なら、何でそんな風になってんだ?」
妙に気が緩んでいる。違うな。こう、”ふわふわしている”という感じだ。なんとも抽象的だが、適切な表現だと思う。様子を見ようと顔を近づけたところ、ふと香料に混じって、別の匂いがすることに気づいた。
これは――酒の匂いだ。
「エイト、お前……酒、飲んだのか?」
「お酒ぇ? んーと、ですねぇ……戻って来る途中でぇ、宿屋の人がぁ、分けてくれたのですよぅ。」
「……あ?」
エイトが笑いながら、片手を上げる。
その手には、酒瓶が一本。……しかも、結構上等だ。
いや、それは分かった。分かったが……。
「お前、何で酒なんか飲んだんだ。」
「……ふぇ?」
ふぇ、じゃねえよ。飲めないくせに。……飲めないよな?
一先ず酒瓶を取り上げてテーブルの上に置き、そのぐんにゃりとした体を抱え直した。
思っていたよりも軽いので片腕で抱き留めつつ、ドアを閉めることが出来た。そのまま、部屋の奥へ運ぶことにする。
「ほら。ベッドに行くぞ。」
「はぁい。」
「あー、良い返事だ。」
「ありがとーございますぅ。」
「っと。ふらふらじゃねえか。まともに戻って来たのが奇跡だな。」
「きせきですぅ。」
くにゃくにゃした歩き方をする”へーしちょー”サマがどうにもこうにも危なっかしいので、必然的に引き摺る速度が慎重になる。なのに、当人は暢気な顔で俺に凭れかかったまま”酩言”を吐く。
「ククちゃん、力持ちですねえ。すごいですぅ。」
「ありがとよ。それよりもコラ、酔っ払い。ちょっとは自分の足で歩け。歩けないようになるんなら、酒なんか飲むな。」
「ええとー、私が飲んだのはぁ、果実酒でぇ、お酒じゃぁないんですよぅ。」
――それも酒だよ。
果実”酒”ってなってんだろうが。
頭痛がしそうな台詞だったが、大方、誰かがそんな嘘を付いて飲ませたんだろう。単なる親切心からの奢りか、それとも”邪心”からの誘いか。さっと見たところ、特に妙ないたずらはされていないようなので安堵する。
それに、飲んでしまったものはもうしょうがない。
「屁理屈言ってないで、お前はとっとと横になれ。」
そう言って、ちっとも進まないぐにゃぐにゃのエイトの身体を抱き上げ、直接ベッドに運ぶことにした。
あっと言う間に到着したので、ああ、最初からこうすればよかったと思うも、横道に思考を割く時間すら惜しい。
後悔するのは後回しだ。
ともかく、こいつが軽くて助かった。
ベッドに下ろせば、エイトは体を揺らして横向けになり、潤んだ瞳で俺を見た。
「……ククちゃぁん。」
「何だ?」
「背中、さすってぇ……気持ち悪いのです……。」
「……吐きそうか?」
「んーん……だいじょぶ、です……」
「そうか。水は飲めるか? どれくらい飲んだか知らねえけど、水飲んで体内のアルコールを薄めておけば二日酔いになりにくいからな。」
そう説明しつつ(聞こえているかは分からないが、まあいい)ベッドサイド側のテーブルに置いてあったゴブレットから水を注ぎ、自分もベッドの上に乗る。
そして水を飲ませる為にエイトの上体を抱え起こしたところ、項垂れていた相手から呻くような声がした。
「ククちゃぁ……」
「ん? 気持ち悪いか?」
「んーん……さむいから、ぎゅーしてぇ。」
「え? は?」
伸ばされた手を、うっかり取ってしまったのが拙かった。酔っているせいか思いのほか強い力で引っ張られ、エイト諸共ベッドの上に倒れ込んでしまう。
ぐったりしたエイトに圧し掛かる格好になったのは、重力の法則というか不可抗力だ。
服越しに伝わる、いつもより高い相手の体温。俺の耳元で、呂律の甘い唇から吐息めいた言葉が零れた。
「ねぇ……ぎゅーって、して。」
待て、エイト。いや、待てって。心の準備が整ってないんだって――こら、身体を摺り寄せてくるな! 待て待て、まだ、理性が……!
縋りついて距離を詰めてくる相手の肩を押さえながら、俺は全力で理性と戦う。
だがそんな努力をあざ笑うかのように、エイトは俺の肩に顔を摺り寄せて甘い声で鳴いた。
「ふぇぇぇ……さむいのぉ……ククちゃぁん……」
とうとう泣き出してしまったので、俺は心の中で鎖を手にし、それでどうにか理性をがちがちに固めてから、エイトの背中に腕を回した。
その背を擦り、話しかけてやる。
「泣くなって……ほら、気分はどうだ?」
「……んー……」
「もう、お前、そのまま寝ちまえ。」
「……んん……」
「聞いてんのか、エイト?」
「……すぅ。」
お子様は寝つきが良い。実に、良い。
俺はとにかく、今回も理性が崩壊せずに済んだことに安堵しながら、体勢を立て直してエイトの横に並んで、寝た。
朝まで後数時間。
ああ。静かに夜は更けていく――と、ここまではどうにか問題事が起きなくて(起こさなくて)済んだのだが。
◇ ◇ ◇
翌日、早朝。
寝ぼけたのか、酒の発熱のせいなのか。
気づけばエイトは上半身裸だった。……しかも、思いきり寝乱れていていた。
そして運悪く、俺はまだ目が覚めておらず。起こしにきた保護者……ゼシカが、それを目にして。
で、何かを誤解したんだろう。
「……っ! エイトに何をしたのよ――っ!」
女にしとくには惜しい完璧な平手打ちが、目覚めの合図だった。
……なぁ。これって、俺が悪いのか?
違うだろ? 違うよな? ……な?
……あー痛ぇ。
もう、あれだ。エイトのやつをちょっと躾けてやらないとダメだな……マジで。じゃなきゃ、俺の身がもたねぇ。ドルマゲスと闘りあう前に、こっちが満身創痍になっちまうぜ。
いやむしろ、それまで生きていられるか……だな。
しっかしほんと、ゼシカの平手(往復)打ちは効くな。鞭じゃなくて素手でもモンスターを倒せるんじゃ――。
――なんて、冗談でもレディに対して考えることじゃないな。俺の中の騎士道が許さねえ。
はあ。こんな紳士的な聖堂騎士に、この仕打ちとか。何の試練なんだかな。
なぁ、そこのレディ。
ちょっと訊きたいんだが。
……俺の顔、歪んでねぇよな?