Dear Dragon *Extend
Ex1.それは無垢なる甘い罠
「……。」
マルチェロは目の前の小動物を持て余していた。
相手はというと、にこにこと無邪気な笑みを浮かべており、何の警戒も無く立っている。
その両手は前に差し出されており、まるで殉教者が神に供物でも捧げるような仕草に見えた。
だが、そのほっそりとした手にあるのは供物ではなく、甘い匂いを漂わせた茶褐色の塊――焼き菓子だ。レース柄の包み紙に乗せられて、香ばしさを漂わせている。
何の変哲も無い代物。形も整っていて、崩れなどもない。しかも、見た限りでは手作りのように思えるのだが……。
仲間の女――名は、ゼシカと言っていたか?――が、作ったのだろうか?
――いいや、今は作り主が問題ではない。
主点は、「何故」「焼き菓子を」「差し出しているか」だ。
眉間の皺を指先で押さえながら、マルチェロは目の前の小動物に対して口を開いた。
「これは何の真似だ。」
問えば、その小動物――これでも何処かの兵士らしいが、何をどうしてもそうは見えない青年エイトは、花が咲き綻ぶような笑みを柔らかに浮かべて答えた。
「おすそわけです。」
「俺に、か?」
「ハイ。」
いつもそうしているのだ、といった態度だった。
ああ、そうだろう。こんなにも無防備に懐に飛び込んでくる小動物を、誰が手酷く追い払えよう?
……馬鹿が。
誰もが同じだと思うなよ。
誰もが皆、優しくしてくるのだと――甘やかしてくれるのだと思うな!
「何故だ?」
「え?」
片手でそれを押し退けるようにして吐き捨てたマルチェロに、エイトはキョトンとした顔で相手を見上げた。
不思議そうに、首を傾げている。ついこの間、地下の牢獄に放り込んでやったばかりなのだが……まさか忘れているのか?
「……お前は、俺に処刑されかけたんだぞ。」
思い出させるように答えを先導するも、相手はますます小首を傾けていき……ついには、ふぇ、と疑問の声を出した。
情けない声を出すな。それでも兵士か。ちりりとした苛立ちを押さえつつ眉間を押さえていれば、エイトは再びマルチェロににっこりしてみせた。
「でも、しょけーはだいじょぶでした。」
「……あの時は、つまらぬ横槍が入ったからな。」
「ええと……あの、よく解りません。」
それは横槍の意味が解らないのか、それとも俺の言葉が理解出来ないのか?
じろりと睨みつけるも、エイトには効果がないようだ。冷徹な鷹の目に臆した様子も無く、手にした菓子に視線を落とした。
「……これ、どうぞ。」
ずい、と見せ付けるように菓子を差し出してきたエイトに、マルチェロはますます憮然とする。
別に見えていないわけじゃない。無視してたんだ、阿呆。
一度は拒絶してみせた筈だが……いっそ、思い切り打ち払ったほうがいいのか?
(それにしても――。)
マルチェロはそこで、改めて小動物然とした相手を観察する。
兵士にしては艶やかな茶色の髪。黒曜石のような大きな瞳に長い睫。そして、砂糖菓子のような笑み。
この小動物が訪問した後の数日は、ほとんどの部下の気が緩んでいることが多い。浮ついていると言おうか、腑抜けていると言おうか、とかく院内全体の空気が温くなる。
「原因はコレか」とマルチェロは歯噛みする。道理で、来客用に備えている高級菓子の減りが早い筈だ。
――お前は兵士なんかよりも、可愛がられる小姓の方がお似合いなんじゃないのか?
冷笑を浮かべてそう言ってやろうと思ったが、どういうわけか上手くいかなかった。
この笑顔の前では、どうにも敵意が半減してしまっていけない。それでも相手の思う壺になるのが嫌で、溜息を混じらせて言うのはせめてもの抵抗。
「俺は、甘いものは好かん。」
だからソレは持って帰れ――と、手を振って言い掛けた矢先、エイトが台詞を重ねた。
「はい、ククちゃんから聞いてます! だから、紅茶クッキーにしてます。」
「な、」
「アップルブランデーもちょこっと混ぜ込んであるので、マルちゃんでもだいじょぶだと思います!」
「ま、」
今こいつは俺のことをなんと言った?
なんと呼んだ!?
「おい、お前――」
「しゅーどーいんの皆さんにもお配りしました。後は、マルちゃんで最後です! お偉いさんには最後にするんだって、ゼシカちゃんが言ってました!」
この小動物は、どこから咎めていくのが最適だ!?
言葉に詰まる。小動物は何でこうも扱いが面倒くさい!?
「それじゃ、俺はこれでしつれーします。」
彼の怖いもの知らずは、マルチェロの手にほぼ無理矢理な形で菓子の包みを押し付けると、ぺこりと律儀に頭を下げて、部屋から出て行ってしまった。
廊下に、とてててて、とまるで子供のような足音が聞こえたのは気のせいだと思いたい。
呆然とするマルチェロ。その手の中には、焼き菓子の包み。
ほんのりと焦げ茶色。
エイトの髪と同じ色の――。
「ッッ……何なんだ、あの小動物は!」
理解不能という言葉が正しくぴったりな子供。確か、腹違いの愚弟――ククールより少しだけ年下だったような。
なのに、あの性格。
生クリームとカスタードを混ぜこんだ上から、更にシロップと蜂蜜をかけたような、甘ったるい……――どうにも甘い、あの子供!
世間知らずで、無防備で、誰にでも優しくして。誰にでも優しくされて。
こんな俺にも、何とも自然に――純粋に、擦り寄ってきて。
昔、子供の頃に飼っていた子猫を思い出し――……っ、馬鹿馬鹿しい!
真剣にエイトのことについて考え始めた自分にハッと気づいたマルチェロは、そこでそれ以上考えるのを止めにした。
それから、ふと思い出したように焼き菓子に視線を移し、ぎりりと歯を鳴らす。
差し入れだと? この俺に?
馬鹿なことを。馬鹿な子供め。
睥睨するように渡されたものを見つめるも、しかし捨てようとはせず、机の上に置いて、ふうと溜息。
「焼き菓子……か。」
子供の頃に一度だけ食べたきりだ。
あの頃の自分は、さてエイトのように無邪気だっただろうか?
いいや、愚弟――ククールの存在を知ってから、甘いものを食べなくなった気がする。
嫉妬だったのか、あてつけだったのか。大人になった今では、全くに馬鹿馬鹿しい忌避だったと思えるようになったが、それでも随分長いこと口にはしていない。
「おすそわけ、と言ってたな。まさか、俺にも寄越すとは。」
何気なく一つ摘み上げ、齧る。さくり、と香ばしい音がした。
「ふむ……悪くない。」
確かに、無駄な甘さはない。それどころか、仄かなブランデーの香りが食欲をそそる。
……美味しい。
「……マルちゃん、か。」
差し入れはもう拒む気はなかったが、あの呼称だけは早急に止めさせよう――そんなことを思いながら、窓の外に目を向けた。
すれば、来た道を軽やかに駆け去っていく赤いバンダナを巻いた小動物が一匹。その姿が道の向こうに消えるまで、マルチェロはさくさくと菓子を齧りつつ見つめていた。
その行動に、特に意味はない――と、思いたい。