Drago di Isolamento -side:K-
12B. 翻弄され、狂想し
女神は、息ひとつ乱さず実に綺麗な姿勢を保ったまま部屋へと戻ってきた。
ただ、出て行く前と違っていたのは、その艶やかな髪から、しなやかな肢体から、雨の雫を滴らせているくらいだろうか。流石の女神でも、濡れずに帰ってくるというのは出来なかったらしい。まあ、当たり前だが。
しかし、俺と同じような目に遭ったにも関らず、女神――エイトには、雨に降られた時に窺える無様さや惨めさなどは欠片も無かった。
背筋をピンと伸ばしているせいもあるのだろう。雫が髪を伝い目元から頬を流れていくのにもさして気に留めない様子で、整えた動作といえば、指先で前髪を耳の後ろへと流しただけ。
俺のようにタオルでがしがしと髪を拭いたりする事も無く、静かにこちらに歩いてくる。
――ふと、違和感を覚えた。
それがバンダナを外しているせいだと分かったのは、相手が目の前まで距離を詰めてから。
長めの前髪の間から覗く黒瞳が、いつもよりはっきり見えている。深淵の闇を覗いているような色の瞳に、自分の姿が映っていた。水に濡れた白い肌と黒髪の対比は、息を飲むほど美しくて目が逸らせない。
(……? 何だ? 俺を見てる……のか?)
気のせいか、エイトは先程からじっとコチラを見つめているようだった。
固定された視線。真意を探ろうとその瞳を見つめ返すも、無表情なのと闇が深すぎる瞳のせいで、全く感情が読みとれない。
ぞっとするほどの美貌に震えるも、けれど余計に目が離せなくなっていく。
ああ、ようやく見てくれたな――と、ドコかで安堵するものがあった。
(俺の何が見たいんだ、女神様?)
ゆっくりと引き込まれていく。腕を伸ばせば簡単に掴まえられる距離に相手は居るのだ。
そうだ。掴まえてしまえばいい。
勢いに任せて引き寄せてしまえばいい。
今ならきっと逃げない――逃がさない。
そこまで考えた時、不意に、ぞくりと身内を駆けるものがあった。
背筋を通り抜けた寒気に、俺は持ち上げかけていた腕を引っ込める。
(……っ! 俺は馬鹿か!)
相手を突き飛ばし、距離を置いたのは自分だというのに何を考えているんだと苛立つ。
(いや……そもそも! コイツが、何も喋らないでぼけっと突っ立ってるのが悪いんじゃねぇか!)
責任転嫁。抱いた欲望を舌打ちと共に押し込めると、俺は今だ無言で佇んでいる相手を睨み付けて口を開いた。
「――俺の服は?」
そんなことを言ってやれば、相手がようやく動きを見せる。抱えていた鞄を開けると、中から俺の服であろう包みを取り出した。
まあ、ここまでは普通だ。無愛想なのは今に始まったことじゃない。
――問題は、この先にあった。
「……着替えだ。」
放り投げられた包みは、あろうことか手を伸ばした俺をすり抜けて胸の前へと落ちた。
手渡しすらも許されず。
触れるのすら厭うような行動に、俺は怒りと悲しみで胃の腑をぎゅっと締め付けられるのを感じた。
(お前は、そこまで俺が嫌いになっちまってるのか?)
言葉が出ず視線だけで問い掛けるも、相手はスッと視線を逸らして背を向けてしまう。語ることなど何も無い、と冷徹な気配を漂わせて。
「ありがとうな」と。
せめて一言だけでも告げてみれば、そこで状況は変わったかもしれない。けれど、俺がその言葉を口にすることは無かった。
よほど厳重に運ばれたのか、袖を通したシャツは全く濡れていなかった。
こういうところは流石だな、と感心する。
エイトは、やる事為すこと全てにおいて完璧だった。
しかしそれも、自分自身を除いては、だが。服を着た俺は、まだ沈黙を保ったまま側に立っている男を見上げて言ってやった。
「……お前さ。いつまでそうしてるんだよ。」
エイトがここに戻ってきてから、ゆうに三十分は経っている。それなのに、相手は濡れた格好のままそこに居るのだ。
相手は、こちらの質問に少し首を傾げただけで、何も言おうとしない。
話す気が無いのか。語る言葉を持たないわけでも無いだろうに。
「ぼさっと突っ立ってないで、お前も着替えろよ。」
そう言えば、エイトが目を瞬かせるのが見えた。何だよ。分からない言葉でも使ったかよ?
エイトは馬鹿じゃない。
元々そう口数が多いほうでないし、どちらかというと寡黙な人間だが、それでも以前はもう少しまともに喋ってくれていたように思う。
なのに、先程から反応が鈍い。というか、ほとんど喋っていない。
(俺と話すのがそんなに煩わしいかよ?)
苛立ちが募る。エイトを突き放したのは俺だが、それでもこれは無いだろうと思う。
(お前が俺を無視する気でいるなら、俺は俺で行くからな。)
こちらにも意地があった。
無反応な相手を横目に、俺は袋の中を覗き込む。鞄の中が浸水した場合に備えてか、服がもう一着入っていた。
(新品てわけじゃねえが……ま、コイツはその辺気にしないだろ。)
服を掴むと、それを相手に向かって放り投げた。
エイトは一応受けとったものの、想定していた通りといおうか、俺の言葉には従わない。それどころか、「これは、お前の服だろう」と何とも分かりきったことを言って、返そうとする。
それは意地か。
それとも拒絶か。
だが、俺も引きはしない。少し強い口調で言い返す。
「いいから、とっととそれに着替えろ。……部屋が汚れるだろうが。」
本当は体が冷えてしまうことを心配したのだが、どうにも突っかかるような物言いになってしまった。――あの男と床の上に倒れこんでいた光景を思い出したせいだ。
クソッ。苛々する!
八つ当たりする気は無かったが、俺はエイトを睨んで「とっとと着替えろ」と促した。
「……。」
少しして、エイトが息を吐く。
観念したのか、呆れたのか。どちらかは知らないが、「分かった」とばかりに頷くと、ようやく服を脱ぎだしたので従う気にはなったようだ。
……最初からそうしとけ、馬鹿。
◇ ◇ ◇
エイトは男だ。ドコかの城の兵士らしいが、その割に体躯は細身で背は俺より少し低い。
そしてこれが一番の特徴だが、兵士の癖に恐ろしく綺麗な顔立ちをしている。
中性的、というのか。強すぎる毒のような美貌は、長めの前髪と赤いバンダナで拡散しているが、それでも引き摺り込んでくる強さを持っていた。
そんな青年が、今。
目の前で、裸体を晒していた。
胸元の紐をしゅるりと解いて何の躊躇いもなく脱いだ服の下から現れたのは、兵士にしては滑らかすぎる白い肌。傷一つ付いていないそれは、そのままエイトの強さを示していた。
視線を外そうにも落ち着ける場所などどこにも無い。
結果、エイトの着替えを眺めることになる。
首の後ろに、濡れた髪が艶かしく貼り付いていた。その雫が髪を伝い、背骨をなぞるように流れ――腰のくびれ、少し隙間の空いた奥へと流れていく。
伏せられた瞳。長い睫にまで雫が伝い、瞬きをするたびに落ちていく光景などは、艶かしいという域を超えている。
思わず、ごくりと喉が鳴った。
まさかその音が聞こえたわけでは無いだろうが、エイトが肩越しに一瞥を向けてきた。
『何だ、欲情しているのか?』
すっと細められた瞳は何を意味しているのか。
『抱きたいか? それとも――抱かれたいか?』
幻聴が聞こえる。違う。これは俺の醜い妄想だ。エイトはそういう男じゃない。……そういう人間じゃないと思いたいが、ならばあのときマルチェロとは何を――……。
(――ああクソッ! 俺には関係無いことだ!)
舌打ちして、窓の外へと視線を流した。……逃げたわけじゃない。雨はまだ降っているのかと、確認したかっただけだ。
そのうち身支度が済んだのか、エイトがこちらへ向き直った。
しかし、その視線は俺ではなく、なぜか自分の袖へと落とされている――と思ったら、ぐいぐいと裾を引っ張り出した。
(……? 何やってんだコイツ。)
謎めいた行動に俺は面食らうが、眺め続けていれば答えが判明する。
エイトは、裾を折り曲げていた。どうやら少々サイズが大きかったようだ。せっせと左右の袖を捲くってある一定の長さまで織り込むと、今度は足元へ移り、また黙々と丁寧に裾を折り曲げていく。
(……いちいち均等にしてるとかありえねぇ。)
苦笑が、いつしか微笑に変わる。
落ちていく、緩やかに。
先程まで胸の中に渦巻いていたドロドロしたものは消えていた。
今度こそ”身支度”が済んだのか、エイトが顔を上げた。その顔はやっぱりいつもどおりの無表情であったが、四肢の各所の裾がきっちり折り曲げられている為に、どうにもアンバランスに見える。
まるで、背伸びをしたがっている子供のようだ。
――そう考えた途端、笑いが堪えきれなくなった。
「クッ……ハハッ!」
エイトが「どうした?」と首を傾げるので、俺はくつくつ笑いを隠さずに答える。
「お前さ、それ、凄ぇガキっぽく見えるんだけど。」
「……。……そうか。」
エイトが心持ち、不思議そうに首を傾げた。この部屋には鏡が無い為、言われた相手は自分で自分の格好を確かめ始める。
爪先から胸元まで視線を走らせ、時折ついと裾を引っ張る。まさか生地の強度を確かめているわけではないだろうが、かといって何をしているのかは考えても分からない。
というか、この女神様は本当に意味が解からない行動をとる。
この後のことも、そうだった。
”点検”をしていたエイトが、不意に顔を上げた。
それが本当にいきなりだったので、俺はついエイトが見た方向――俺の後ろ?――へと視線を向けたほどだ。
ドアの外に誰か居るのか?と思ったのだが、人の気配らしきものは無い。
何なんだ?とエイトに向き直るも、相手はサッと俯いてしまった。
……いや、いま明らかに視線逸らしたよな?
チリ、と喉の奥が焼け付く。言い知れぬ不快感で、だ。
――言いたいことがあるんだったら言えよ!
そう怒鳴りつけてやろうかと思った言葉は、低い声によって遮られることになる。
「……を」
「何?」
「……飲むものを、持ってくる。」
「は? 急に何だ――って、オイ!」
腕を伸ばしたが、掴まえることは出来なかった。解かっていたことだが、当たり前のように擦り抜けられて。
こちらをまたもや一顧だにせず、相手は部屋から出て行ってしまった。
唐突に取り残された俺は、半ば孤立感を覚える。
掴まえられる距離に居て。
けれど触れることは一度として叶わず。
誘うように見つめてきたと思ったら、冷たい気配で一閃してそれを押し止める。
これは何なんだ、と思う。
罪か罰か贖罪か断罪か。
修道院に居た頃、あの歪んだ箱庭には様々な”神の教え”があったが、これ以上に残酷なものは居ないだろう。
無関心な中に、時折優しさを含ませて。
考えても分からない謎を、混ぜ込んで。
「お前は俺をどうしたいんだよ、エイト。」
心の内どころか手の内すら見せない氷の女神。
正気と狂気を揺さぶられ、おかしくなってくる。
流石に、このまま翻弄されっぱなしなのはどうにも気に食わなくなってきた。