Pandoratic Balance
5
名前を呼んでくれた。
「またな。」って言って、笑ってくれた。
銀の髪が綺麗な人だった。
笑顔が格好良くて、纏う気は陽光のように柔らかで暖かくて。
もう一度、逢ってみたいなと思っていた。
なのに、どうして――こんな。
こんな最悪の再会になってしまったんだろう。
◇ ◇ ◇
誰の姿も見えない場所で。
「はぁっ……はっ……はぁ……。」
血に濡れた刃を見つめながら、息を切らして立ち尽くす。
その血は勿論、自分のものではない。
「はぁ、はぁ、……はぁ……。」
ゆっくりと呼吸を整えるも、今だ止まらない手の震え。
「……はぁ、……っく……。」
仕舞いかけた剣を取り落とし、がくりとその場に膝を付く。
「ぐっ……けほっ……か、ふっ……」
込み上げてくる強い吐き気に襲われて、そのまま草の陰で吐いた。
人を斬ったのは、初めてじゃない。
もう幾度と無く手にかけてきた。たった一人の願いの為に。
慣れるようなことは無いが、それでも、騙し続けることで耐えてこられた。
「ふっ……く、……かはっ……」
なのに、今は。
涙が後から後から溢れてきて、止まらない。
胸を満たすのは、軋むほど痛い慙愧の念。
名前を呼んでくれた人を、微笑し返してくれた人を――優しい人を、斬ってしまったという痛み。
「ご、ごめ……な、さいっ……ごめん、なさ……っ……ごめ、な、さ……っい……!」
謝罪の言葉が、壊れたように口を付いて出る。
何に対して謝っているのか、分からない。どうして胸が痛いのか、解らない。
この震えが何処から来るものか、判断がつかない。
一つだけ、はっきりしていることがある。
それは、この不可解な胸の痛みだけ。
◇ ◇ ◇
「もう! やっと帰って来たと思ったら、あちこちボロボロで、血塗れで……! 一体、何があったというのです?」
トロデーン城の自室で。
ミーティアが、少し強い口調で喋りながら、せっせとククールの腕に包帯を巻いていた。
本当はというと、彼女とその他含めた人間に余計な心配をさせたくなかったので、自分一人でこっそりと処置しようと思っていたのだが、途中で見つかり咎められた結果が、この始末。
第一、ミーティアは自分の仕える城主の娘だから、こういう事をさせてはいけないのだ。
けれど彼女が、どうしてもと言って引かなかった。その意志に負けたククールは苦笑し、そのまま彼女に治療を任せることにしたので今に至る。
「……はい。一応、一通りの処置はしておきました。あと、お薬をここに置いておきますから、辛くなったら飲んで下さい。それから包帯、強く巻きすぎているようだったら言って下さいね?」
「ああ。平気だよ……ありがとうな、ミーティア。」
「良いのですよ。それにしても……本当に、何があったのですか? こんな……酷い……。」
綺麗な眉を顰めて心配げに顔を覗き込んでくる姫君に、ククールはただ曖昧な微笑を浮かべて。
「いや……ちょっと、獣に噛みつかれましてね。」
「獣?」
「そう。」
愛されることを知らない、愚かで哀れで――けれど哀しいほどまでに愛しい獣。
「それで、その……獣さん、は?」
獣にまで”さん”付けする彼女の礼儀正しさに、ククールは苦笑して言う。
「――逃げられました。」
逃げられた、否――逃がされた?
表現はともかくも、あの掃討者と化したエイトと対峙しながら、それでも何とか彼らを逃がすことが出来たのは、僥倖以外の何ものでも無いだろう。
そう、こうして生きているというだけでも、幸運に近いのだ。
いや、もしかしたら”生きることを許された”のかも知れない、が。
「……。あの、こんな事を言うのも何なのですが……生き延びて、良かったなと思うのです。」
「それは、何に対して?」
「――両方です。」
「成程……確かに。」
凍りついた眼で斬りかかりながら、静かな涙を流していたエイトの姿が脳裏を過ぎった。
こんな再会を望んだ筈じゃ、なかったのに。
「……何で、こうなっちまったんだろうな。」
「ククール?」
「いや……何でもないですよ、姫君。」
そう。俺は何でもない。
身体の痛みは、簡単に癒し治すことが出来る。
けれど――ああ、けれど。
傷ついた心は何処へ行くのだろう。あの獣は今頃きっと、深く傷ついて泣いてるだろうが、しかし癒してもらいたい相手は多分……あの男は、手を差し伸べやしないだろう。
「……不憫なやつだ。」
沈痛な面持ちをして目を閉じると、誰に聞かせるともなく呟いて、静かな溜め息を吐く。
そして、目を閉じて祈った。
彼の者の痛みが少しでも癒されることを、ただ静かに。