Pandoratic Balance
6
深夜のマイエラ修道院。
夜勤以外の者が、あらかた寝静まった頃合にエイトは戻ってきた。
「あ、お帰りなさいませ副団長……っ――!?」
見張りの兵士がエイトに気づき声をかけるも、その姿に息を呑んで言葉を詰まらせた。
すっかり憔悴しきった表情、虚ろな視線、服のあちこちには、どす黒い染み。
細い身体が、微かに震えている。蒼白以上に冷めた状態で。
「い、いかがなされました、副団長!」
足早に近づく兵士に、エイトは眼を伏せたままゆっくりと頭を振って答えた。
「何でも、無いのです……。」
「何でも無いことはないでしょう! ……そうだ、団長殿にお知らせした方が――」
「――止めて下さい!」
急に顔を上げ、エイトが叫んだ。
相手の服を掴み、眉根を寄せて首を振る。
「……止めて、下さい。」
エイトがそうやって強い感情を誰かに表すのは初めてのことで、驚いた兵士の駆け出しかけた足が止まった。
「……団長殿には、私が自分で報告します、から……。」
「副団長……。分かりました、貴方の意に従いましょう。」
「すいません……。」
「いいえ……自分の方こそ、差し出がましい真似を。では、自分は職務に戻ります。
それでは――おやすみなさいませ、副団長。」
「はい……おやすみなさい。」
弱々しい笑みを浮かべて、廊下を歩き去っていくエイトの後姿を見ながら、男は辛そうな表情で、暫く見送るようにその場に立ち尽くしていた。
◇ ◇ ◇
部屋に戻り、鍵を閉めた。
ドアに凭れる様に身を預け、ずるずると床に蹲る。
身体の震えは、まだ止まない。
「うっ……ひっ……く……。」
不快な感情に襲われて、エイトは再び泣き始める。声を押し殺し、頭を抱えて震えながら。
「たす……けて……。助けてぇ……っ……――兄様、兄様っ……助けて、兄様……っ」
名を呼ぶのは、唯一人。
救いを求めるのは、その人だけ。
けれど、救いの手は差し伸べられない。
だがそうだと分かっていても、ずっと名前を呼んで縋りつく。
血塗られた手、後戻りなど出来る筈が無く。
ましてや今更、赦されることなど無いだろう。
救済は、得られない。
何処からも、誰からも。
暗い中に不意に置き去りにされたような不安感に、どうしようもなく怯えながら泣いて、そうして呟くのは縋りたい相手の名前。
「にぃ、さまぁ……助けて、助けてぇ……――マルチェロ、兄、様ぁ……っ……」
得体の知れない感情に襲われて、怯えるのは彷徨う子。
夜の中、ただ泣き続けて、一人きりで救われない許しを乞うた。
◇ ◇ ◇
そうして、いつしか夜が白み始めるのを、エイトは希薄な状態で眺めていた。
結局、一睡もしていない。
震えはどうにか治まったが、今尚続く得体の知れない不快感に苛まれている。
その時、コツコツ、と戸をノックする音がした。
「副団長、起きていますか?」
昨日の夜、廊下で擦れ違ったあの兵士の声だった。
「あの、そろそろ礼拝の時間ですが……参加致しますか?」
ドア越しから、労わるようなものが伝わってくる。
相手の身分差もあって恐る恐るというものだが、それでもエイトを心配しているのだろう、声は控え目ながらも、問い掛けは遠慮がちに続く。
「もし、お辛いようでしたら、私から簡単に説明しておきますが……その、……いかが致しますか?」
「……――……。」
「エイト副団長……?」
返事が無いので兵士が再度呼びかけると、ドアがゆっくりと開き、隙間からエイトが姿を見せた。
「エイト……副団、長……。」
顔色は昨夜よりも青褪め、目を伏せて正体無く佇むその様は、幽鬼でも見ているような有様だった。
兵士が息を飲み僅かに身を引きかけたが、途中で踏みとどまった。
それを見て、エイトが僅かに顔を上げて微笑する。
「……ああ……驚かせて、しまいましたね……すいません……。」
「いえ、そんな――私よりも、副団長……貴方が……。」
「――礼拝には、参加すると……そう、団長殿に伝えてください。」
「副団長!」
相手の咎めるような声に、エイトが目を伏せたまま答えた。
「……大丈夫です、これくらいなら。少ししてから、参ります……から。」
「ですが、そんな状態では……!」
兵士は一度激昂しかけたが、エイトの表情を見てすぐに気を取り直したらしい。
「――……いえ、分かりました。では、副団長は支度をお急ぎ下さい。
団長殿には、私から上手く伝えておきますので。」
そういうと、困ったような微笑を浮かべてエイトに敬礼する。
「どうか、ご無理をなさらぬように。――それでは、礼拝堂で。」
そう言って立ち去る兵士を視線で見送りながら、エイトは静かに戸を閉めた。
◇ ◇ ◇
「ふ……っ……っく……う……――……っ」
後ろ手にドアを閉めたままの格好で、エイトはそうやってまた嗚咽する。
神になど祈ってみせても、このように堕ちて穢れ果ててしまえば救われなどしない。
なのに、礼拝堂に行く。
あの人と空間を共有出来るから。
静かな、その空気を。
それだけでも、幸せだった。
でも……。
「な、んで……っ……」
頭が痛い、胸が痛い。癒されるものなど何も無い。
ただ苦しみが、痛みだけが募っていく。
見ない振りをしてきたものが、確実な形となり始めてきている。
――あの日から。
脳裏を過ぎる銀の髪が、邪魔をする。
あの陽気な笑顔が、優しい声が、全てを現実にしていく。
「……めて……止めて……っ……止めて、くれ……っ」
この歪な夢から、目覚めさせないで。
「……兄様……っ……俺、俺は……。」
礼拝の時間が迫っている。けれど足が動かない。
血に塗れた身を、今更ながらに神の前に晒すのが怖くなっていた。
多分、もう――神に祈ることが、出来ない。
「マル……チェロ……にい……さ、……まぁ……っ――!」
上げる声は悲鳴にすらならず、後に続く「助けて」という言葉は音にならず、掠れて……消えて。