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Pandoratic Balance

7



礼拝堂に赴けば、いつものように煩わしい存在が視界に入る筈だった。
が、その日は”それ”が居なかった。
別の場所に居るのだろうか、と周囲にそれとなく眼を走らせてみたが、やはり”それ”の姿は何処にも無く。

欠けた存在が気になったが、別段、だからといって支障が出る訳ではない。
むしろ、煩わしいものが消えたから、気分良く礼拝行動に望めるものだと思っていた。
しかしいつもより礼拝に訪れる人の数が少ないのは、”それ”の姿が無いからだろう。
あれの容姿を見るためだけに、ココに来るという不明な輩の存在は知っていた。
が、さりとてそれも些細なこと。常に比べて静かだから、これの方が良いと思う。

けれど何故か、非常に強い不快感が心中を満たしていた。

不快の理由は、見当も付かなかった。


◇  ◇  ◇


「――おい、そこの者。」
礼拝後、廊下を出たところで向こうから歩いてきた見回りの下級騎士を呼び止めた。
「はい。何でしょうか、団長殿。」
相手が歩みを止め、姿勢を整えて、こちらに向き直る。
「……副団長は、どうしたか知らぬか。」
そう問えば、相手は僅かに表情を曇らせて口篭った。
「はい、いえ……その……。」
肯定したいのか否定したいのか。
「……はっきりしろ、煩わしい。」
そのどっちつかずの態度に苛立ちが募り、つい険悪な声で問い詰める。

「何だ?知っていることがあるのならば、隠さずに言え。」
「は、っ……そ、それが――。」
相手が怯えるのが分かり、周囲に目を走らせた。
礼拝が済んだ後とはいえ、院以外の関係者がまだ何処かに残って居るかもしれない。
こんな下らない問答で容易に自分の醜態を見せ、自己の評価が降下しては堪らない。苛立ち怒鳴りかけるのを抑えながら、一度、深呼吸をしてから再度、静かに問い掛け直す。

「ああ、すまなかったな。強い物言いをしてしまった。再度、問おう。――副団長の居所を、知っているか?」
面倒くさいと思いながらも、口調を変えてみたことが功を奏したのだろう。
相手は恐る恐るといった風に、伏せていた眼を上げると、言い辛そうに口を開く。
「あの、副団長殿は――……。」



◇  ◇  ◇



その頃。
エイトは自室の床に、茫然としたまま座り込んでいた。
視線は焦点が合っておらず、膝を抱えて子供のように蹲り、微動だにしない。
涙は既に乾き、頬に薄い跡を残していた。

沈黙したまま、どれくらいの間そのままでいたのだろう。
ドアの叩く音を聞いて、沈んでいた意識が浮上する。

「……居るのか、副団長。居るのならば、ここを開けろ。」
その声が兄のものだと実感するのに、どうしてか暫く時間が掛かった。

「……居るんだろう。――開けろ。」
少し怒りが混じった声。それは、確かに聞き覚えのあるもので。
「……っ! は、はいっ……申し訳ありません、兄様!」
ようやく正気に返ったエイトは、慌てて立ち上がるとドアの方へと駆け寄る。急いで鍵を外し、ドアを開ければすぐそこに相手が立っていた。
「に、い……さ……」
酷く険しい表情をしたマルチェロに、エイトがひくりと息を呑んで後退れば、それに合わせるように室内にマルチェロが入り込んで来た。
手荒く戸を閉め、エイトの前に立つ。

「あ、あの……兄、様……。」
礼拝に赴かなかった自分に対し、怒っているのだろうと思ったエイトが、怯える声で何か言おうとした。
けれど、それより早くに、相手の手が飛んだ。

バシッ、と室内に響く乾いた音は、既に聞き慣れたもので。
頬に手を当て、よろめきながらエイトが謝罪の言葉を口にする。
「っ……も、申し訳、ありません……。」
「……何故、礼拝に来なかった?」
「……それ……は……。」
その場限りの嘘で、今の状況が凌げれるのならば、何でも言えば良かった。
しかし、その嘘すら考えることが出来ない。
エイトの頭に浮かぶのは、冷えた残像のみ。

血塗られた剣を握る、血塗れの手。
深蒼のマントに、赤い血が花のように飛び散る。
震える手、震える身体。
斬り捨てられていく人。
人の形をした、切り捨てたもの。

対峙したものから浴びるものは、罵倒、哀願、憎悪、恐怖。
今まで、そうだった。
けれど、たった一人。
一人だけ、優しい人が居た。
優しい声で、名を呼んで止めようとしてくれた人が……居た。
――その人間に、剣を振り下ろした。

なのに。
それでも、その人は――ククールは、笑っていた。
寂しさを含んだ微笑で。

「ぁ、……あ、っ……!」
胸をぎゅっと押さえ、エイトは前のめりになって呻く。言葉が出ない。
それを見たマルチェロが、怪訝そうな顔をして片眉を上げた。
「何だ?私は、礼拝に来なかった理由を訊いているだけだが。」
「あ、……ぅ……その、……俺、俺……っ……。」
言葉を紡ごうにも見つからず、エイトは水から揚げられた魚のように喘いで、胸を押さえるばかり。

苦しかった。
苦しくて、胸が痛くて。

――辛くて。

「にぃ……さま……っ、俺、……俺は……――」
俺は何の為に居るのですか?
殴られた頬よりも、胸が痛む。
何かが軋んで、唸りを上げている。

「に……ぃ、……さま……」
俺は、貴方に愛されていますか?
嘘でも良いから、応えて欲しかった。
でも。
それ以上、言葉が出なくて。
現実を、認めたくなくて。
――……息が、出来なくなって。

「おいっ……!?」
揺らぐ足元、視界が霞んで。
エイトは、そのまま意識を失った。
視界が赤く染まって、閉じていく。

『エイト』――と。
柔らかな声で名を呼んでくれた人の。
刃で傷を付けてもなお優しく微笑みかけてくれた人の。

その笑顔が一瞬、浮かんで……後は、もう――闇の中。


◇  ◇  ◇