Pandoratic Balance
8
礼拝に来なかった理由を問う為、あれの部屋へ向かったのは良かった――が、ドアを叩いても室中から応じる声がせず、中へ入ろうにも鍵が掛かっていてどうにもならない始末。
居ないのかと思ったが、どうも室内に人の気配がある。
居留守か? 僅かに苛立ちながら、再度ノックをして声をかけた。
「おい、居るんだろう。ココを開けろ。」
幾分遅れてから反応があった。鍵が外れる音がして、控えめにドアが開く。
出てきたのは、蒼白な顔をしたあれの姿。
怯えた眼が宿す陰は一層深くなり、その細い体躯に纏わせる気配は、ただ希薄。
――何が、あった?
少なくとも、今までこんな姿になったのを見たことは無い。
罪の無い人間を幾度も手にかけさせた後すら、ここまで鬱屈した状態になることは無かったのだ。
それが今は、この様とは。
「あ、あの……兄、様……。」
その声を聞いて、自分が別のことに意識を向けていたのに気づき、舌打ちした。だが室外では体面が悪い――そのまま部屋の中へと相手ごと押し進むと、鍵を掛けてから苛立ちをぶつけるようにその頬を打った。
「……っ!」
聞き慣れた鈍い音。お馴染みの短い悲鳴。
白い肌が赤く染まる。何処までも見慣れた光景だ。そして、この行為も変わらない。
相手が謝罪の言葉を口にしながら、よろよろと後ろに下がるのを見る。相変わらず眼を逸らし、唇を噛みながら黙って痛みに堪える姿に、ますます苛立ちが募った。
――どうしてこうも、腹立たしい……!?
髪を掴んで顔を上げさせ、尋問しようと詰め寄ると、相手の様子がおかしいことに気づいた。
何故か胸元を押さえ、息苦しそうにしていた。
震えている身体。顔色は尚一層、青く褪めて。
訝しみ、前に一歩足を踏み出せば、相手が伏せていた視線を上げた。
そうして向けられた視線は、何かに縋りつくような懇願の色を宿している。
相手が口を僅かに開閉させ、言葉を発する。
「にぃ……さま……っ、俺、……俺は……――」
掠れたその声は、泣き声に似ていた。
相手はコチラを見つめ、何か言いたげにしていたのだが――……。
その身体が、不意にぐらりと揺れたかと思った瞬間。
「……おいっ!?」
相手は意識を失い、音も無く、その場に崩れ落ちた。床に激突する間際、相手の身体を受け止める。触れたその手先は、冷たく冷えていた。
「全く……何だと言うんだ。」
仰向けに抱きかかえ、額に手を当ててみた。
……熱は無い。
呼吸は……少し乱れているが、それも大したものではない。
ただ、理解不能な不省に陥っただけのことだろう――……と、考える。
「何処までも世話の焼ける……!」
不可解な態度、意味不明な言葉。結局、何を言いかけていたのかは謎のまま。
ああ、神経が尖る。煩わしい。
腕の中のそれ――……エイトは、眉根を僅かに寄せたままで気を失っている。
手が知らずとその髪に触れ、労わるように梳いていた。その自分の行動に愕然とし、慌てて手を離そうとした時だった。
「……ごめん……な、さい……。」
エイトが、言葉を口にした。
覚醒したのかと眼を向けたが、今だに眼を閉じてぐったりしているところを見ると、今のは恐らく、うわ言だったらしい。
ともあれ、己のしていた行為に気づかれずに済んで安堵した次の瞬間、マルチェロは凍りつくことになる。
「……ごめ、……なさ……クク……ル、さ……。」
エイトが呟いた名、それは自分も知っている男のものだった。
正体の知れない感情が心中を満たし、気分が悪くなる。
理由は、やはり分からない。ただ、不快で仕方が無かった。
苛立ちが募る。不快指数が上昇する。
昔は、こうも憎悪を抱いていたわけではないのに。
そういえば――いつからだろう。
こうも苛立ちが、不快さが、煩わしさが募り、そして習慣のごとく手を上げるようになったのは。
視線を落とせば、その弟の白い頬を涙が伝い落ちていくのが見えた。
それを親指の腹で、そっと拭う。
閉ざされた瞳、長い睫は涙のために僅かに濡れて艶やかで。
それを眺めていると、身裡に生じる、ある感情がある。
その湧き上がる衝動は、恐ろしく昏いものではないだろうか。
「……ちっ。全く、忌々しい……!」
怒りの矛先を自分自身ではなく腕の中の相手に向けて、舌打ちする。
とりあえず、こうしていても仕方ないので、エイトを手荒に担ぎ上げて、ベッドのほうへ運ぶことにした。
こんな状態では何の役にも立たないだろう。
今日の執務は、全て他者に回さねばならない。その作業処理を考えると頭痛がした。
このまま手を解いて床の上に落としたら、どうなるのだろう。
そんな感情が一瞬過ぎて、消えた。