Paladin Road
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王子と兵士と迷子
「王子。少しお話ししたいことがあるのですが、宜しいでしょうか?」
「うん?」
声を掛けられたエルドは、読もうとしていた書類から顔を上げて相手を見た。
この城の中で、エルドが最も信頼している男――フランコ副兵士長。王子としての記憶を失い、いまだ半端なままでいるエルドに対して唯一、態度が変わらなかった人間だ。
前任者と比べると一回り年若いものの、幼少の頃からエルドと共にトムの特別鍛錬を受けていた為か、彼はどんどん出世していき――そうしてトムの後を引き継いだ。
しかし彼は兵士長を辞退し、副兵士長のほうを志願した。
理由は――「私の実力は、まだまだトム兵士長に遠く及びませんので失礼に当たります。」とのこと。周囲の反応は失笑よりも称賛が多かったので特に問題になることもなく、今に至る。
そのような経緯で副兵士長となったフランコは日々レイドックの兵士をまとめ、戦力を鍛えてくれていた。
トムに負けず劣らずの厳しさだと兵士たちに畏怖されているが、幼少の頃からの付き合いがあるせいか、エルドには穏やかで優しい。
……そんな副兵士長殿が、今は厳しい顔をして目の前に立っている。
しかも「話がある」ときたものだ。
「話っていうのは? 何かあったのか?」
エルドが首を傾げて訊ねれば、彼はコホンと咳払いをして口を開いた。
「あれは本気なんですか?」
いきなり不明瞭な答えを返されて、エルドは苦笑する。明確な名詞が欲しいところだが、彼の表情に浮かんでいるものを見て”あれ”が何のことなのか分かってしまった。
顔に出るというのはこういうことかと納得しながら、エルドは彼の顰め面ににっこりと微笑みを投げる。
「ああ。テリーは本気だよ。ふざけているようには見えないだろ?」
「……王子は、それで宜しいのですか?」
「うん。テリーの頑張りに対して俺から言うことは応援くらいなもので、他には特にないからな。」
にこにこ笑って答えた王子に、フランコが眉間に微かな皺を寄せる。
不機嫌そうな顔。物問いたげな眼差しをして。
彼は、テリーを止めて欲しいのだろうか?
それとも、テリーにはレイドック城の兵士になって欲しくないのだろうか?
(差別意識から言ってる……って感じじゃないな。)
エルドは、レイドック城における兵士の資格について思い出す。
レイドック城の兵士は身分を重視していないので、試験に合格すれば兵士になることが出来る。
夢の世界でエルドとハッサンが受けた、あの試練。あのようなものを受けて、合格すればいいのだ。
その難易度は、夢の世界と比べると易しいほうだとエルドは考える。
なにせ、コチラには“試練の塔”などがない。……“ソルディ兵士長”ほどに強い人も、もう――いない。
(テリーの前歴に魔王の配下、っていうのがあるけど、あれは俺やハッサンたちだけが知ってることだから、問題にはならない筈だしなあ。)
などと、何気に問題があることを無いものとして考える王子様。
これは平和ボケでも危機管理の甘さでもなく、単にテリーの上司(?)である魔王が、他と比べて好漢だったことに一因がある。
――四魔王の一人、デュラン。
口調に尊大さがあったが、その態度にはニンゲンを見下すような感じは無く、魔王というよりはどこか武人然としていて、嫌な気分にならなかった。
もっとも、初戦でマジンガペアに負けた際に伝説装備を丸ごと一式剥ぎ取られて地上へ放り出された時などは、恨み以上の何かが芽生えなくもなかったが。
いまでも思い出すと遠い目になる思い出。
だが、禍根は引き摺らないに越したことはない。ひとまずコレは、心の引き出しにしまっておいて、話に戻ることにする。
(俺が勝手に考えていても仕方ないな。)
ここは、自分で勝手に想像するよりも直接聞いた方が早いだろう――そう考えたエルドはフランコに視線を戻し、口を開いた。
「フランコが懸念しているのは、何だ?」
「私がお尋ねしたいのは、それが彼の意思か王子の意思か、という点です。」
「テリーが自分で決めたんだよ。俺は何も言っていないし、していない。」
「そう、ですか……。」
ひらひらと両手を振って笑うエルドを見て、フランコがまた何か言いたげな表情をする。二、三度ほど躊躇いを見せた後で、今度は口を開いた。
「あの……王子は、本当にそれで――」
「――“それでいい”んだ。テリーが新しい道を拓こうとしてるなら、俺が邪魔することは無いよ。」
穏やかな声で、穏やかに微笑む王子様。
けれど、その笑みはどこか弱々しい。……フランコは、気づかない振りをする。
「……王子の意思は分かりました。では、私もそのように。」
「うん。あ、でも、様子を見るのは適度にな。贔屓になっちゃうから。」
「はは。ええ、その辺りは弁えておりますよ。」
ウインクしておどけた王子様に、フランコは苦笑しながら内心で呟く。
――私は贔屓しませんよ、王子。だって、既に貴方の手が差し伸べられているんですから。
フランコは机上の隅を一瞥し、そこに不必要な本が積まれているのを見る。
筆記用具がそれとなく置かれて陰を作っている上に、背表紙もフランコの視線から反対側に向けられているので、タイトルは読み取れない。
だが、長年城に仕えているフランコには表紙のデザインと色を見るだけで、それが何か分かっていた。
――「騎士の智慧書」。城の大書庫に存在している、基本から上級までの礼儀作法や剣の技術といったものを掲載している実に有益な書物だが……問題が、一つ。それは、この本がなかなか見つからない場所にある、ということだ。
受験者曰く「それを見つけ出すのも試験の一環」らしい。
以前は、数多くある棚のどこかに人の手によって未分類扱いとして紛れていたのだが、最近では特殊な魔法で移動しているとの情報がある。
それも失われた魔法を使用しているので、魔法で探し出すのが無理という徹底ぶり。まだ人の手で隠してくれた方が楽だったものを、一体何者が難易度を上げてくれたのか。
誰の手によってこんな”試練”が加えられたのかについては、分かっていない。
――が、フランコにはおおよその見当がついていた。
このレイドック城において、そのようなことが出来る人物はただ一人しかいない。
「ん? まだ何か聞きたいことでもあるのか?」
視線を感じた王子様が、書類を書いていた手を止めて顔を上げた。
穏やかな笑み。……何も悟らせない、王族の顔。底知れぬ叡知と策略を隠して、若き王子は柔らかに微笑む。
――ああ、この人もすっかり王族然としてきた。
フランコは、黙って首を横に振る。
「いいえ、何も。……そろそろ、お飲物でもお持ちしようかと思いまして。」
「飲み物? ――あ。もうそんな時間か。」
壁にかかる時計を見て、エルドが頷いた。時刻は三時前。休憩にはもってこいの時間だ。
王子様は、うーんと考えるような素振りを見せた後で副兵士長を見上げ、微笑みながら言った。
「じゃあ、紅茶が飲みたいな。フランコ手作りのやつ。」
「私の、ですか?」
「そう。紅茶を作るのが上手かったよな、フランコは。」
「覚えて……いるのですか?」
フランコが、驚いた表情で訊ねた。彼の王子はムドー討伐の際に色々あり――エルドの精神が二つに分けられ、別人格がそれぞれの世界で暮らしていたことを彼は知らない――ただ未だに幼少期の記憶が曖昧なのだとしか、王妃から聞いていなかったからだ。
王子だが、以前の王子では無い――そのことは、フランコを少しばかり落胆させた。
昔の思い出話に花を咲かせることは、もう出来ないのか。
トム兵士長や妹君のことも、彼の王子は薄ぼんやりとしか覚えていないのか。
昔の彼を知っているだけに、その事実が殊更重く感じ、ひたすら悲しくなった。
だが、彼は曲がりなりにも城に仕える一兵士。そんなことを思っていても、態度や顔には出さない。――個人的な感情を主君にぶつける従僕など、どこにいる?
故に、フランコは何も無かったかのように、エルドに仕えようとしていた。
あくまで、副兵士長として。
“あの人”の代わりに、兵士長代理として。
考えないようにしていた。彼の王子の変異から目を背け、見ないふりをしていた。
そうすれば、彼は“彼”なのだと――かつての王子だと、思えるから。
そんな思いを隠しつつ、平静を装っていたフランコだったが、今のエルドの台詞を聞いて無意識に感情が顔に出てしまったことを、彼自身は気づいていない。
ほっとしたような、酷く安堵した顔をしてしまったことを、彼は自覚していない。
感動して無言になっているフランコに、エルドが首を傾げて問いかける。
「ん? どうした、そう押し黙って。俺の記憶違いだったか?」
「いえ……いいえ! 作ります! 極上の紅茶を作らせて頂きます!」
彼は知らない。
王子様が、笑みを崩さずに話を続けたその意味を。
「では、少々お時間を頂きますが、すぐに持ってまいりますのでお待ちくださいね!」
歓喜の声で答えたフランコは、ピシッと形の良い敬礼をするなり足早に部屋から出て行った。
その遠ざかる足音を聞きながら、エルドが溜め息を吐き――呟く。
「……やっぱりお前も、“僕”じゃないから不安を感じていたんだな、フランコ副兵士長。」
小さな声で吐かれたそれは、吐息のような独白。
先程までの明るさや気さくさはすっかり影を潜め、どこか憂鬱げな調子があった。
椅子の背もたれに深々と体を沈め、エルドは小さな声で言葉を零す。
「”俺”の還る場所はもう何処にもないんだな。」
エルドは、山奥の村の青年でもレイドック城の王子でもない瞳で宙を見つめたあと、そっと目を閉じた。
そして両手で顔を覆い、呻く。
「”俺”の存在は誰にも望まれていないのか。」
それは、一つに重なりきれなかった”彼”の叫び。記憶を失う前の王子では無く、村人と偽って過ごしていた”僕”でもない、幻の彼の嘆き。
それは誰に聞かれることも無く、静まり返った部屋に響く時計の音によって掻き消える。
夢から覚めた現実の世界。
彼の痛みは誰にも知られず、彼の心を真に知ろうとする者もなく。
心の置き場所がない彼の青年は迷子になったまま、一人きりで途方に暮れていた。
Tacitum vivit sub pectore vulnus.