Paladin Road
- 11 -
揺らぐ天秤
幻だった甘い夢。
夢はいつか終わるもの。
終わらせたくないならば方法は一つ。
目を閉じたままで、いればいい。
それこそ、童話の眠り姫のように。
こんこんと深く夢に落ちてしまえば、現実を見ることも無い。
◇ ◇ ◇
「……っふあ。」
エルドは出かかった何度目かの欠伸を噛み殺すと、指先で目元の涙を拭った。
壁の時計に目を向ければ、針は深夜を回った時刻を差している。
そろそろ眠ったほうが良いのだが、そうすれば集中が切れてまともに仕事が続けられない気がした。
休むならばきりのいいところまで作業を進めてからだと考え、軽く目頭を揉んでから再びペンを動かしていく。
室内はランプを灯しているが、寒期に近い今の季節だと明度が不足してしまうせいかいつもより暗い。
暗室めいた部屋に、一人きり。
「……はあ。」
不意に手を止め、ぼんやりとした光点を見つめて息を吐く。
このところ、テリーと擦れ違うことが続いていた。初めは式典の準備で仕事が増えたせいかと考えていたのだが、この間フランコにそれとなく確認してみたところ、今はそこまで忙しくないことが判明して首を捻る羽目になる。
触れられる時間は作るつもりだ、と豪語していたテリー。
「お前とは一時も離れたくないんだ」とまで言っていたのに、もう二週間ほど会っていない。……会いに来てくれない。
姿を見かけることすらないが、かといって仕事を放棄しているわけではないらしい。朝方に載せた机上の書類が夕方には片付いているのを、フランコやその部下たちが見ているのだ。
ただ、放棄しているのは主君の護衛だけ。
無防備にさらされた王冠。
王子の側にあるべき盾がなく、剣も無く。
テリーは何をしているのだろう?
あれだけ側に居たいと言っていたくせに。
”王子サマのお守り”に飽きてしまったから、別なものを探しているのだろうか。
夢中になれる、新しい――玩具を。
「……玩具ってなんだ。違うだろう。」
思わず浮かんだ嫌な表現に、頭を抱えたくなった。
「ダメだ。卑屈になってきた。ちょっと落ち着こう。」
そう呟いてペンを置くと、机の上についた右手に顎を乗せて瞑想するように目を閉じた。
「……はあ。」
テリーは自分の仕事を片付けた上で何かをしているのに、自分はちっともできていない。
名ばかりの王族。
王子らしくない王子サマ。
なにをしても、誰かに違和感を与えてしまう奇妙な存在。
――現に、幼い時からの顔なじみでいた兵士や、実の親ですらも以前の“王子”ではないようなことを言われたではないか。
そして現実の世界、偽りでありながらも兄妹として過ごした妹にも“兄”ではない、と言われてしまって。
「俺は……なんなんだろうな。」
所詮、自分は重なり損ないの “幻”でしかないのか。
ここに居るのに。
確かに存在しているのに、誰にも認めてもらえない。
「……はあ。」
何度目かの溜め息を吐き、際限なく気分が沈んだところで「自分は本当に疲れてるんだな」と自覚した。
こういうことは考えてはいけない。
考えたところでどうしようもない。
ぐらぐらと意識が揺れる。
少し頭が痛い。
「なんか……疲れた、な。」
そう呟いたエルドの体は、ずるりと傾き――静かに机上に突っ伏した。
独りきりの室内。
彼の側にあるのは弱々しい光を放つランプが一つ。
◇ ◇ ◇
ゆらゆら。
ゆらゆら。
緩やかな振動に揺られて意識が浮上した。
側に人の気配。
誰かに運ばれているのだと理解したエルドは、そこでゆっくり目を開けた。
「……テリー?」
唇から思わず零れ出たのは、いつも側に居た騎士の名前。
すると、頭上で苦笑する気配がした。
ぼんやりしたままのエルドに、相手が答える。
「……。申し訳ありません。フランコです。」
「……あ。」
すうっ、と目が覚めた。
明瞭になった視界。
流れていく廊下。
どうやら、フランコに抱き抱えられて運ばれている途中らしい。
揺れていた感覚はこれだったか、とエルドは理解する。
いや、そんなことよりも――。
(まさか寝呆けてテリーとフランコを間違えるなんて……!)
数々の戦闘を経て磨かれた能力が、ここまで低下するなんて自分はそこまで平和ボケしていたのだろうか?
いや、疲労のせいだと思いたい。疲労のせいにしておきたい。
とにかく今は、気配を読み違え、人違いした自分の迂闊さが恥ずかしくて仕方がないので、何かに責任をなすりつけてしまいたかった。
(惚気じゃないけど、気恥ずかしい……!)
エルドは両手で顔を覆うと、フランコの腕の中で小さく身を丸めて煩悶する。
穴があったら入りたい。
というか、むしろ埋めたい。
嘆きの牢獄辺りに閉じ込めてやりたい。
(ああもう、俺の馬鹿ーっ……!)
「――。」
エルドの心中は修羅場真っ盛り。
一方フランコはというと、腕の中で何やら静かに悶絶している王子を眺めながら面映ゆい気持ちで廊下を歩いていた。
(……本当に可愛らしいなあ、この人は。)
レイドック城の若様、エルド。
今は亡きトム兵士長ほどではないけれども、フランコもまた王子が幼かった頃からの付き合いがある一人だった。
幼い妹姫の世話をよく焼いていた心優しき兄王子。
どこか弱気なところがあるものの、常に穏やかな少年だったその彼が、両親である王と王妃が魔王の呪いに掛かって眠りに落ちた時に単身でムドーの元へ乗り込もうとしたのには酷く驚かされた思い出がある。
トム兵士長に何度も反対される度に、何度も反論していた王子。その横顔は凛々しく、雄々しく、どこか眠る獅子を思わせて、フランコの記憶に強く焼きついていた。
本来の彼は争いを嫌い、人と衝突するのを避ける性格で大抵は素直に相手方の意見を聞き入れて引き下がる事が多い。
けれども、その時ばかりはトムの反対を押し切り、魔王討伐へと向かい……結果、行方不明となってしまった。
帰ってきたのは、少しの時が流れた頃。
王子は帰還した。どことなく不思議な雰囲気を纏わせて。
そのせいか本人だと認められず、一度は城から追い出されてしまう。
彼が本当の王子として戻ったのは、ムドーを倒して両親の呪いを解いた後になってからだ。代わりに、トムが居なくなってしまったけれど。
それからも王子は旅を続け、各地を回り……最終的に世界を平和にした頃に、ようやくレイドックに帰って来たのだった。
彼の帰還を待ちかねていた。待ち焦がれていた。トムの後を継いで、彼の王子を守ろうと思っていた。
けれども――既に、王子の側には人が居た。テリーという名の青年は元々ただの剣士だったらしいが、いつの間にか聖騎士の試験を受けて合格し、王子の側に居るようになった。
パラディンというその名の高位の職が示すのは、主君の剣盾。傍らに控え、守るように常に王子の近くに居る姿を、フランコは何度も目撃したことがある。
王子はいつも笑みを絶やさない人だったが、テリーと居る時の彼の表情はどこか違うように見えた。
王族としての立場がある為か、エルドの態度は穏やかながらも規律正しく、王子らしさを崩さないようにしていたように思うが、いま考えると、あれは気を張っていたのかもしれない。
いつだったか、エルドの部屋の前を何気なく通り掛かったことがある。その時は少しだけ戸が開いており、室内が窺えるようになっていた。中から微かに聞こえるのは、談笑に似た声。少しばかり興味を惹かれ、無礼を承知でそっと中を覗いてみて――驚いた。
室内の中央、そこに置かれた机にエルドが座っていて、傍らにテリーが居たのだが、彼らは何かを話していた。
仕事のことか、他愛ない雑談か。何を話しているのかは聞きとれなかった――盗み聞きになるので耳は済まさなかった――が、エルドの表情はそこから見ることが出来た。
フランコはその隙間から、ひどく柔らかい眼差しで何よりも甘く微笑んでいる青年を見る。
そこに居たのは、フランコの知らない王子――いや、一人の青年エルドだった。
彼は、威厳のある王族でもなく、覇気のある王子でもなく、それこそ子供のような――実に純粋な顔をして、笑っていた。
それを見てフランコは、ああ、と思った。
ああ、彼の王子は、トムのような――いやもしかするとそれ以上かもしれない――存在を、とっくに見つけていたのか。
フランコは、そっとドアから離れると、音を立てないよう足音に気を付けてその場を後にした。
……悔しいなと思った。
目指したのは、憧れの人でもあるトムのような兵士長。
在りたかったのは、その彼が見守っていた人の側役。
彼の人の剣に、盾に、なりたかった。
幼い妹姫を亡くしたその時から、子どもらしさを潜めてしまった王子様。
笑うことはあっても、もうそれが子供の笑顔でなくなっていたのに気づいた者は、トム兵士長くらいだっただろう。
王子の様子が変わったことについて話をしていた時に、トムが言った言葉を思い出す。
「王子は、無理に大人になろうとしている。常に前を――ずっと前を見ていて……あの方は――」
トムは先を語らずに溜息を吐いただけだったが、フランコには後に続く言葉が聞こえた気がした。
――エルドはまるで早く妹に逢いに逝くみたいに生き急いでいるから、心配なんだ。
強い信念を持ちながらも、どこか脆いものを抱えていた若き王子。
トムは最後まで王子の薄氷を気にかけていたが、結局は寄る辺になれぬままにゲバンの策略に嵌まってしまい、レイドック城から去らざるを得なくなってしまった。王子のことを頼む、とフランコに言い残して。
その伝言――遺言のとおりに、フランコはエルドを支えてやりたかった。
頼まれなくとも、彼の支えになろうと決めていた。
けれども、その願いは後から来た見知らぬ剣士に横から攫いあげられてしまって。
(俺も間に合わなかったんだなあ。)
心中で呟いて、フランコは腕に抱えたエルドに意識を戻す。そこには両手で顔を隠したまま己の間違いについてまだ悶えている王子がいて、フランコはますます目尻を和らげ、心の中で愛おしげに呟く。
(それでも、こういう可愛らしいところは昔のままだ。)
トム兵士長が始終気にかけていた気持ちが分かる気がするな、と思いながら、フランコはもう暫く声を掛けずに腕に抱えた王子様の観察をする。
王族の身でありながらもその身分に驕ることなく、喜怒哀楽を表現する人。最近は特に、大人びすぎているきらいがあったが、今は子供のように素直で純粋な感情を見せていて。
彼は吐息に似た息を吐き、声無く思いを零す。
(……俺は、貴方の剣になりたかったです。エルド王子。)
消えた願い。
フランコは秘めた想いを閉じ込め、エルドが羞恥から立ち直るまでゆっくりとした歩調で黙々と長い廊下を進んでいくのだった。
Tacere qui nescit, nescit loqui.