Paladin Road
- 13 -
満ちる狂気
さよならは言わない。
別れの言葉も語らない。
ただ告げるのは、弔いの為の祈り。
彼の世界、その現実。
全てに対して「さよなら」を告げたのは――。
◇ ◇ ◇
ゆらゆら揺蕩う、闇の中。
ふらふらと、何かが揺れている。
遠ざかり、近づいて、また遠ざかる。
それは人のような形をしていて、誰かに似ているようでもあった。
『エルド。』
姿見えない人の声が、こちらの名前を呼ぶ。
遙か遠くの残影は懐かしく、愛しく――なのに哀しくなったのは、もう逢えない人のものだと分かっていたせいかもしれない。
それは現実で聞いた声のような気もするし、精神が別たれた夢の世界でよく聞いた声のような気もした。
『エルド。』
ああ、あの優しい声のする方へいきたい。
『エルド。』
ああ、あの甘やかな声の主に触れたい。
闇の中、誘われるままに目を閉じれば意識が昏い底に沈んでいく。
これで良い……そう思った瞬間、別の声がした。
「逃がさないぜ王子サマ。」
「……っ!?」
不意に耳元で響いた、冷たい声。思わず逃げようとしたエルドの手に、足に、腰に、それは甘く絡みつき、一息に引きあげる。
闇の底から血の滴る現実へ、そうして引き摺り戻されて……待ち受けていたものは、甘い夢の続きでは無いことを、エルドは目を覚ましてから思い知る。
◇ ◇ ◇
「……う、ん……」
閉じた眼の奥で、赤い色がちらついている。
エルドは体全体が熱で軋んでいるのを感じながら、目を開けた。
まず目にしたのは、靄がかった鈍色の天井。何か模様のようなものが見えるが、意識がぼんやりしているせいか、読み取れない。他のものを見る為に寝返りを打とうとすれば、腹部に重い痛みが走って動けなくなった。
「ぐ、……っは。」
痛覚に、一気に目が覚める。熱のせいで意識はいまだ朧げなままであったが、それでも首をゆるりと動かせば、少しだけ辺りを見回すことが出来た。
壁は天井と同じ色をしていたが、そこにもやはり、不定形な模様が描かれている。
不思議な雰囲気のある室内。
しかし、どこか見覚えがあるような……。
「起きたか、王子サマ。」
直ぐ側で声がした。いつから居たのだろう――目覚めた時には誰の気配も人影も無かったと思ったのに。
エルドは、緩慢な動きで声のした方に視線を向けた。
そこに居たのは、微笑みを浮かべた青い髪の青年。
「……テ、リー?」
熱い吐息交じる声で名を呼べば、相手の笑みが深くなる。
「よお。気分はどうだ?」
訊ねながら、テリーがエルドの額に手を当てた。ひんやりした手の平の心地良さに、エルドは目を閉じつつ答える。
「……熱い……あと……喉が、渇いた……。」
「くくっ。そうか。……まあ、それだけ汗を掻いていれば当然だな。」
テリーの含み笑いが気になったものの、それよりもエルドは額に当てられていた手が離れたほうが気になってしまった。
目を開けて、口を開く。
「テリー……悪い、けど……水、と……氷のうか、何か……ない、か?」
「……そうだな、ちょっと待ってろ。持って来てやるから。」
そう答えたテリーはエルドの肩口を軽く叩くと、背を向けて部屋から出て行った。
「……はあ。」
あとに残されたエルドは、ぼうと天井を見上げながら息を吐く。
揺れる視界。目が熱で潤んでいるのを感じる。熱はますます上がる一方だし、体の気怠さもどんどん重みを増していた。
ふと、この熱の原因は何なのだろうと考える。
(俺……何を、して……こうなったんだっけ?)
靄がかった記憶を、ゆっくりと辿る。
なかなか片付かない仕事。
逢いたい人は姿が見えず、会いに来ず。
そうしている間にも”期限”は迫り、追い詰めてきて。
積もる書類。何もかもが片付かず、山積みになって。
何もかもがどうしようもなく、どうでもよくなりかけた時に……疲れて眠ってしまったのだったか。
そして、その後は確か――。
『健やかに眠れるおまじない、ですよ』――額に降った、優しい声からのキス。
『俺からは受け取らないっていうのは不公平じゃないか?』――冷ややかな声と共に口内を蹂躙したのは、ようやく逢えた人で……それから――。
(……それから?)
そこまで辿った瞬間、不意に記憶がぼやけた。
(あれ……そこから、どうなったんだっけ?)
考えを纏めようと寝返りを打ちかけるも、腹部に走った熱い痛みで体が硬直した。
「っく……」
エルドは短く呻き、横を向いた格好のまま痛みに顔を顰めて目を閉じる。
(そうだ……俺、怪我……して、たんだ。)
しかも熱の具合と痛みから察するに、それなりに重傷であるのを自覚した。
(城に居て、何かに急襲された……?)
ぼやける直前の記憶では、自分は自室に居た。
テリーも、一緒だった……と、思う。
世界に平和を取り戻したとはいえ、ぬるま湯の日常に甘えていたつもりはない。かつては、村の青年と旅の剣士――今は一国の王子とそれを守る聖騎士として、周囲への警戒は常に心がけていた。
侵入者と一戦交えた覚えも、モンスターと交戦した記憶もない。これだけははっきりと自信があった。
(じゃあ、俺の怪我は――?)
記憶を思い出そうと、絡んでもつれる意識の糸を紡ごうとするが、すぐに解けてばらけてしまう。
(ダメだ……考えが、まとまら、ない……)
体が熱い。喉が渇いた。
苦しい。痛い。
「……ぅ」
妹が生まれる前はよく熱を出して寝込んでいたと、生前のトムが言っていたらしいのをフランコから聞いたことがある。
守る存在があったから、俺は強くなれた。
……強くなる必要があった。王子として。王位を継ぐ者として。
弱い自分の姿などは、見せたくなかった。
――弱さなど見せられない。それはたちまちのうちに付け込まれて、大切なものを失う恐れがあった。
後年に起こったことが、良い例だ。……ムドーの罠にはまり、精神を別たれ、記憶を失った自分が招いたのは、長年仕えてくれていた大切な人を死へ追いやることだった。
もう何も失いたく無かったのに教訓は生かせず、彼を逝かせてしまった。全ては自分が弱かったせいで。選択肢を間違ってしまったせいで。
ああ、そうだ。
俺はいつも間違ってしまう。
ならば今回の怪我も、何かを間違えてしまったのだろうか――?
しかし、エルドがまともに考えられるのはそこまでだった。
熱の上昇が体力を削り、怪我の痛みが判断力を低下させていったので。
◇ ◇ ◇
「はぁ……っく……」
あつい。いたい。
みずがのみたい。
こおりがほしい。
だれか。
だれか、そばに、いて。
「持って来たぜ、王子サマ。水と、あと、頭に乗せるやつ。」
痛みに顔を顰めていたエルドは、ドアの開く音と誰かの靴音を、熱に浮かぶ靄の中で聞いた気がした。
「……まだ生きてるよな?」
「っ、は」
そっと肩を押されて、仰向けの体勢に戻された――と思ったら、額に何か冷たいものが乗せられた。
「う……ん」
再び目を開けたエルドは、ベッドサイドに人影があるのを見る。それはテリーで、水差しの中身をグラスに注いでいた。
透明で、ひどく美味しそうに見えるそれに見惚れていれば、テリーが振り返り、微笑みかける。
「物欲しそうだな。そんなに喉が渇いていたのか?」
ぎしり、とベッドが軋む音を立てた。
側にテリーが腰を下ろし、優しく微笑んだまま言う。
「そのまま大人しくしていろよ。いま、飲ませてやるから。」
そう言ってテリーはグラスの中身を呷ると、エルドに圧し掛かるように近づいてきて――唇を重ねた。
「んっ……ぐ、」
ベッドに沈む体。
押しつけられた格好から、水を流し込まれる。
「ん、っ、んん」
冷たい液体が喉を通り、肺腑を満たす。
「――っ、はあっ」
やがて唇が離れ、エルドは大きく息を吐いた。
今しがた飲み込んだ水が胃の奥へ流れていくのを感じる。
失われた命の源。
けれど、足りない。まだ足りない。
この体は、もっと水を欲している。
「テ、リー……」
気怠い腕を持ちあげたエルドが掴んだのは、名前を呼んだ青年の服。その裾を力無く握りしめて、願いを吐く。
「み、ず……」
「ああ、美味しかったか? 良かったな。」
そう言ってテリーは微笑み、エルドの頭を撫でた。向けられた眼差しに込められた言葉に、知らぬふりをして。
「テ、リー……?」
はあ、と重い息を吐いて、エルドは相手を見上げる。
言葉を紡ぐ力がなく、会話すら辛いこの状態。熱で頭がぼんやりしている上に、水分が不足しているせいもあって、とかく何もかもに力が入らない。
視線で伝わればいいと思ったが、甘えすぎてしまったか。
エルドは己の怠惰を少し恥じ、きちんと言葉を紡ぐことにした。
「わ、るい、テリー……水を、もう、すこし……くれない、か」
言葉を一つ吐くたびに熱の侵蝕が進み、眩暈を覚えた。
腹部の傷は、相変わらず熱を発し続けている。それでも、どうにか途切れ途切れに頼みごとを口にすれば、頭上で笑う気配がした。
「そうか。水が欲しいのか。」
「う、ん……。」
「分かった。」
ぐったりと目を閉じながらエルドが答えれば、グラスに水を注ぐ音が聞こえてきた。やはり、そうだ。横着せず、明確な言葉にしなければならなかったのだ。
ああ、水が飲める。
安堵の息を吐いたエルドは、次にベッドが軋む音を聞く。
また先程のように口移しになってしまうのだろうか、それとも今度はグラスからだろうか――と。そんなことを考えた次の瞬間、不意に強い力で抱き起されて息を詰める羽目になった。
「――っ……ぐっ!?」
急激な揺れはその体に大きな負担をかけ、強い痛みと眩暈を覚えてエルドは短く呻く。
目を開ければ、テリーと目が合って――微笑んでいる!?――そのまま強い力で引き寄せられ、耳元で囁かれた。
「じゃあ、もっと可愛くねだってみろよ。俺がその気になるように、な。」
甘い声が囁いたのは、ぞっとする狂気。
毒針で刺し貫かれた箇所がじくりと強く痛んだ。
Immodica ira gignit insaniam.