Paladin Road
- 16 -
氷の道、熱の枷
はあ、はあ、はあ。
しんとした廊下。
弱々しい呼吸のなか、エルドは覚束ない足取りで石床を歩いていた。
壁にもたれるようにして歩いている為にその速度は酷く遅いものだったが、それでも確実に前に進んでいる。
はあ……はあ……はあ。
廊下は薄暗く、やはりどこにも人の気配がない。そのお蔭でエルドはこうして誰にも見咎められることなく部屋から抜け出せているわけだが、それは逆に、一人で何でもしなければならないということでもあった。
廊下は冷たい空気が漂っていて、どこもかしこもヒヤリとしている。微熱の残る体を引きずって歩いているエルドに、その冷やかさはありがたいものではなかった。
「う、……はあ……っ、」
溜め息に似た息を吐いたかと思うと、次の瞬間にはその体はずるりと壁を滑って――床の上に崩れ落ちてしまう。
思っている以上に俺の状態は良くないんだなあ――エルドは冷たい廊下の上で、力無く笑った。
もう少し体力が回復するまで部屋にいれば良かったか、と一瞬ばかり考える。
けれども、今日はなかなかテリーが姿を見せず、また周囲がいつも以上にしんとしていたのが気になった。
ベッドから下りたエルドが部屋の外を窺おうとドアに身を寄せたところで、そのドアが開いてしまったものだから、反射的に部屋の外へと足を踏み出したのだ。
訪れたのは、好機か罠か。
……ああ、結局は“こんなこと”になっているのだから、この選択は間違いだったのだろう。
「さ、む……」
絨毯が敷かれていない硬質な造りをした石床の冷気は実によくエルドの体に染み込み、微熱を冷ますよりも体温を奪うほうに“役立って”くれていた。
このままでは、凍死してしまう……そう思ってはいるものの、無理をしたせいで体は重く、起き上がる力が残っていない。
廊下には窓が無かったので、とにかくどこか別の場所に出る道を探していたのだが……距離を、判断を誤った。見誤っていた。何もかもを。
旅をしていた時は、ここまで馬鹿な行動をしでかすことは無かったのだが。
(……ああ……そうだ……)
床につけた頬から伝わる冷気を感じながら、エルドは息を吐く。
(俺が何も出来ないのは……守るものが、ないからだ。)
手の平から零れ落ちる水のように、大切なものはみんなこの手をすり抜けてしまった。
それは妹の死から始まり、“本当の自分”の記憶や思い出、その居場所、それから。
――……それから、大事な……恋、人。
王子になり切れていないこんな自分に、跪いて忠誠を誓ってくれた男。本当は、そんなものなど無くても側に居てくれるだけでよかったのに。
けれども、彼自身が“その道”を選択した――選択してしまったから。だから、エルドは――。
(だから俺も、あいつと”同じように決めた”のに、な……ぁ。)
それでまた彼が側に居てくれるなら、笑ってくれるなら――幸せになるのならば、と思ったのに。
なのに、どうしてこうなったのだろう。彼は、テリーは側に居てくれるようになったけれど、望んだのはこんなものじゃない。
いや、望んだからこそ、この現実なのだろうか。
俺では無く、彼の望みとして。
今は分からない。
テリーの心が解らない。
熱で頭が、ぼうっとする。
冷気で思考が、凍りはじめている。
体が冷えていく。微熱すらも貫いて。
(さむ、い。)
誰も居ない廊下。冷たい床の上。
考えることを止めたエルドの瞳は、ゆっくりと閉じられていった。
◇ ◇ ◇
ゆらゆら揺れる、夢の中。
ふわふわした思考の海で、エルドは誰かの体温を感じていた。
微かな振動が、心地いい。どこかで感じた感触に、エルドの意識が浮上する。
不意に、髪を撫でられた。それは優しい手つきでいて、懐かしさを感じさせるものがある。
そう遠くない、温かい記憶。
エルドは、その名を口にする。
「……フラン、コ……にぃ?」
呟いた瞬間、ぴたりと髪を梳いていた手が止まる。不思議に思って目を開けたエルドは、靄がかった視界の向こうに見える相手に気づいて――正体を確認して、ビクッと体を竦ませた。
「……っ、……テ、リー……」
「……。……ああ。“寝ぼけた”んだな、王子サマ?」
冷えた声、暗い眼差し。雷鳴が落ちる手前のように、ぴりぴりした気配が肌を刺すのを感じて、エルドは小さく身を縮こませた。
また間違えてしまった。――しかも、今度は致命的な間違いを!
微熱からのものではない震えを身に纏い、目を閉じて俯いたエルドにテリーが甘い声で囁く。
「俺が待ちきれなくて、探していたんだろう? ……待たせて、悪かったな。」
そう言って、微笑んでいるであろうテリーの顔を、しかしエルドは見ることが出来ない。一番会いたかった人が、今は一番見つかりたくない人物だったのだから。
そんな相手に抱き上げられたまま、エルドは冷たい廊下を進んでいく。否応なしに。
部屋を抜け出したエルドを咎めもせず、追及すらもせずに、テリーは黙々と運ぶ。その顔に、すっかり見慣れた冷笑を浮かべて。
荷物のように運ばれる中、エルドはそこで不意に凍てつくような冷気の正体に気づく。
人気のない廊下に響く靴音を聞きながら、いっそこのまま気を失えたらいいのにと思う。
あの部屋に連れ戻され、そしてまたあの”日課”が始まるのだと考えると目の前が一層暗くなったが……やはり簡単に気を失えそうにはなく、エルドは打ちひしがれるように項垂れ、震える息を吐いて両手で顔を覆うのだった。
Quae nocent, saepe docent.