Paladin Road
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水鏡に映る乙女の祈り
長い廊下が続いていた。
窓は無く、人気はない。
進むごとに灯りがぼうと点いて前に続く道を照らすが、その先は深い闇が広がっていて何も見えない。
寒さしか感じられないその廊下を、エルドは進んでいる。男に――テリーに、抱き上げられた格好で。
一見すると、それはお姫様を運ぶ騎士か何かに見えた。けれども、エルドの顔には影が落ちており、テリーの顔は陰に隠れているので、甘い童話が示す光景とはかけ離れている。
「……。」
エルドが言葉無く息を吐き、服を掻き合わせて自身を抱きしめた。
オレンジ色のそれは晴れた空の夕焼けのような色をしていたが、今ではくすみ、所々に赤い模様がある。
上着も脚絆も、いつの間にか見失ってしまった。ここに来た時には在ったのか、無かったのか。それすらも、今では思い出せない。
……忘れていたいものまで思い出してしまうから、思い出す気はない。
身を丸めたエルドに気づいた相手が、頭上で笑う。
「ん? 寒いのか、王子サマ。じゃあ、もっと俺にくっつけよ。」
抱き寄せられて、密着する。布越しに伝わるそれは、温かい。
けれどもエルドはビクッと肩を震わせて、身を強張らせた。ひゅっ、と怯えたように息を飲んだエルドの反応を見て、テリーは目元を歪ませる。
「……何だよ。優しくしてやってるだろ。」
「……。」
剣呑な声で言うも、エルドからの返事は無い。その反応がまた、テリーの顔を、感情を、歪ませる。
この王子様が話さなくなってから、もう随分経つ。多分、“余計なこと”を口にしてコチラの怒りを買うのを恐れているのだろう。ここへ来てから、ずっとそうしていたから……すっかり学習してしまったようだ、この王子様は。
それでも――と、思う。
それでも、この王子様はもっと強かった筈だ、と。
他の人間の助けもあったし、一人では無かったが、彼は魔王やその配下、果ては大魔王まで討ち取って世界に光を取り返した人間ではなかったか。
太陽に似た気を持ち、穏やかで優しく、何よりも強く頼りになる仲間内のリーダー。
夢と現実とを生きた精神体の融合が完全ではない為に、己の身裡にある違和感に何やら燻ぶっていたようだが、けれどもそんな素振りは見せずに常に守るものの為に突き進んだ青年。
その真実は、レイドック王子。現実に会ったことは無いけれども、“彼”に関する情報はあちこちから得て知っていた。控えめで、気弱なところがあるものの、心優しい王子様。それが、彼に関する評判だ。
(あ、そうか。)
そこまで考えた時、テリーはエルドに視線を落として、心の中で呟いた。
そうだ、これは――“王子サマ”だ。
暗い穴の中で震え怯えるウサギ。
村の青年と、王族の青年。
野生と温室。
一つに重なり切れなかった男。
彼は果たして何者なのだろう。
夢と現実を経た今、ここにいるのは本物なのか、偽物なのか?
(……まあ、気にすることじゃねえよな。)
村の青年でも一国の王子でも、どうでもいい。もはや身分は関係なくなっている。障壁も障害も取り壊したし、それに、ここでは二人きりなのだし。
(ん? でも……正確には二人きり、じゃないのか。はは。)
暗い笑みを浮かべて、テリーは腕の中の相手を見る。
合わされない視線。返されない言葉。
その声が発せられるのは、ベッドの上だけ。
この腕の中でのみ鳴かせる――籠の鳥。
(そうだ。コイツはもう俺のものだ。)
だからこうして向かっているんだよな、と目的を思い出したテリーは、ますます愉快そうに笑って速度を上げる。
途中、エルドが一瞬だけ問うように見上げてきたが、テリーが言葉無く微笑んでみせると、また体を震わせて俯き、自分の殻の中へと籠ってしまった。
◇ ◇ ◇
そこには、大広間を思わせる広い空間があった。ここもやはり他に人のいる様子は無く、がらんとしている。床には赤い絨毯が敷かれており、真っ直ぐに奥へと続いていた。
「ついたぜ、王子サマ。」
静まり返った広間に、テリーの声がよく響く。話しかけられたエルドがそろそろと顔を上げて、テリーを見た。
「……ここ、は?」
小さな声。訊ねる瞳が揺れている。今度は何をされるのだろうか、といった不安で。
そんな相手に微笑みかけて、テリーは口を開いた。
「ここは、アイギスの間だ。」
話しながら、絨毯に沿って歩き出す。
「準備やらなんやらで意外と時間くっちまったけど、ようやく整ったから、お前にも見せておこうと思ってな。」
「ア、 イ……ギス? 見せる、って……何を――」
「くくっ。そう逸るなよ、王子サマ。」
広間の奥に顔を向けようとしたエルドの顎を掴んで自分の方へ固定し、テリーは歩きながら話を続ける。
「どうせなら、俺と一緒に見ようぜ。」
かつり、と止まる靴音。エルドの顎を掴んだまま、言い繋ぐ。
「いや、会おうぜ、か? なあ――」
「……っ!」
そうして振り向かされた広間の奥にあったのは、巨大な鏡。
それに目を留めた――その鏡面の中のものと目が合ったエルドは、驚愕する。
「な、ぁ……っ」
「おっと。危ないぜ、王子サマ。」
“それ”に声を掛けようとしたエルドがそちらへ上体を傾けたので、テリーが抱き留めて制止する。
「はは。そんなに嬉しかったのか?――姉さんに、会えて?」
「……っ、ど、う……し、て……っ!」
抱き寄せるテリーの腕に無意識に強くしがみついたまま、エルドは“それ”を――鏡の中に映っている彼女を、見上げる。
目を引く美貌を持つ、物静かな女性。
彼女は――ああ。
「な、ぜ……きみ、がっ――ミ、レ……ユ……っ!」
弱々しい声は悲鳴になり切れず、細く絹糸めいていたが、それでもエルドは鏡に向かって叫んだ。
「……どう、して……っ――テ、リー…!」
慟哭を上げて抱き留める相手を振り仰いだエルドは、冷たい目をして笑う男と目が合った。
彼は、縋りつくエルドに優しく語りかける。
「何でって? これが姉さんの望みだからだよ。」
「……っに、」
「おっと。嘘じゃないぜ? 姉さんは幸せを望んでいた。俺と、お前と……そして、姉さんが幸せな未来を、な?」
「こ、んな、もの、が……し、しあわ、せ、なんか……っ」
「――幸せなんてものは、ひとそれぞれさ。」
エルドの言葉を遮って、テリーが続ける。
「ひょうたん島で、それを見ただろ? 欲望の町で、見てきただろ? 幸せの基準は他人が決めるもんじゃない。自分で決めるんだ。……そして、姉さんは決めた。決めてくれたんだ。」
テリーが鏡に視線を移し、そちらに向かって微笑みかける。
「そうだよな、姉さん?」
テリーの視線を追いかけたエルドは、鏡の中でもなおその美しさを保っているミレーユが、柔らかに微笑んで頷くのを見た。
「っは……、ミ、レ……な、ん……で」
悲痛の色を浮かべ、エルドは首を横に振る。こんなの間違っている、とか、こんなのは幸せなんかじゃない、とか。
そういったことを、掠れた声で、途切れ途切れに繰り返す。
目に苦痛の色を浮かべて唇を噛みしめるその姿は、まるで泣くのを我慢している子供のようでいて、テリーは一層笑みを深める。
「ははっ。なんだよ、三人が四人に増えたってのに、まだ足りないのか? 寂しがりやだな、この王子サマは?」
「……っ! ……さ、ん、にん?」
「そう。三人、だ。」
エルドの目尻に浮かびつつある涙を指の腹で拭って瞼にキスを落としたテリーは、肩越しに声を投げた。
「出てきても良いぜ。」
招請に応えて大広間にやってきたのは、金色の竜。熱にうなされていたエルドの額に、濡れたタオルを置いてくれたあの優しい目をした竜だった。
「き、み……?」
唖然としているエルドに、テリーが竜に話しかける。
「こいつの部屋に勝手に入ったのは許せなかったけど、助けてくれたみたいだからな。それに免じて、今回は相殺しといてやるよ……お嬢さん。」
「お、じょう……?」
不思議そうに竜とテリーを見るエルドに、彼の騎士は笑って答えを明かしてやる。
「分からないのか? その背に乗せてもらったことがあるんだろ? それとも、もう忘れちまったのか? 共に旅をしていたのに。俺と会う前から一緒にいたのに? ははっ。可哀想だな――バーバラ?」
「――っ……!」
テリーの腕の中で、エルドの身が大きく跳ねた。エルドは体ならず歯までもを、がたがたと震わせはじめる。
「う、そ……だ……な、なん、で……こ、こん、な……こんな、こと、――……ぁああああっ!」
エルドが頭を抱え、テリーの腕の中でうずくまった。その背を、頭を、優しい手つきで撫でながら、テリーは笑う。
「あーあ。感動しすぎて泣いちゃったか。」
冷気漂う大広間。テリーは、子供をあやす様に彼を揺さぶり、静かな声で話しかける。
「そんなに震えてどうした、王子サマ? 寒いのか? 部屋に戻って、俺が温めてやろうか?」
くすくす、くすくすと騎士が笑う。忠誠を誓った主に、嘲笑を投げて。
「ああ、ははは。そんなに泣くなよ。そういうのは戻ってからにしようぜ。……ベッドの上で、な?」
テリーは相手の髪を軽く梳き、頬をするりと撫でて毒のような甘い声で囁く。そうして恋人のように、震えるエルドを抱え直すと、鏡を見上げて口を開いた。
「じゃあ姉さん、俺はこいつと部屋に戻るから。」
「――。」
美しい姉と笑みだけを交わし合うと、テリーは踵を返して来た道を戻りはじめる。
大広間から出る間際、扉の前でじっとしていた金色の竜に、すれ違いざま囁いた。
「あんたも、またな。……今度は無断でコイツと接触するなよ。俺が、嫉妬するから。な?」
竜は何も言わず、ただ頭を下げてテリーが出て行くのを見送る。
広間に残されたのは、大鏡の中で優しく微笑む美しい姉ミレーユ。
それから、悲しい目をした金色の竜――今は亡き魔法都市カルベローナの娘バーバラ。
彼女たちは、そうして己の道を選択した。それぞれの幸せを描いた未来を。
一人は愛する弟の為に。
もう一人は王子の側に居たいが為に。
彼らはそれぞれに己の願いを叶えた。
ただ、王子様の心だけを置き去りにして。
miserere mei et exaudi orationem meam.