Paladin Road
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空白の夢、虚空の抱擁
眠りから目覚めても続く悪夢。
光すら見えない箱庭で、籠の鳥は虚空を見つめる。
時々、その瞳に映る青い色に懐かしい記憶を思い出すも、それは望んだものとは違う温もりで、鳥の体は冷えていくばかり。
寒々しい寝室。滑らかなシーツに身を包み、ぼんやりと時間が通り過ぎるのを待つ。
束の間の休息の中で見る夢に身を委ねれば、そこに広がっているのはひたすらに懐かしい残景。
『にいさま。ダンスができるようになったの。みて、ほら。』
光差す城の中庭で、幼い妹がくるくる回ってみせる。シフォンのドレスがまるで蝶の羽根のようにひらひらと舞い、とても綺麗な光景だった。
『王子。今夜は冷えますから、温かくして寝て下さいね。』
気温の下がった夜の廊下。自分の幼少期から見守ってくれていた兵士長が、そう声を掛けて微笑む。
寝付けないんだとちょっとした我侭を言ってみせれば、大きな手が頭を撫でてくれた。他の人間が周りにいない時は、額におまじないのキスが落ちてきた。
『エルドにいちゃん。新しい料理を作ったから、食べてみて。』
幼い妹を亡くした後に出来た、夢の世界の妹。後に彼女とは兄妹でもなんでもない赤の他人同士だと判明したが、それでも彼女との生活は楽しかった。現実に戻ってからも兄妹の関係を続ける約束が出来たのは、二人とも同じ気持ちでいたからだろう。……一人だと寂しかったのだ。
『おい、エルド。あんまり無茶はするなよ。お前は一人じゃないんだ。仲間を頼れ。な?』
夢と現実での仲間である男は、そう言っていつも自分が前に立って敵の攻撃を受け止めてくれていた。どっちが無茶してるんだと言えば、「俺が盾でお前が剣だから良いんだよ」と笑って返された。
少しだけ年上の親友。その言葉通り、いつも頼りにさせてもらった。
『私、貴方が大好きだよエルド!』
大魔女の生まれ変わりの少女。明るく元気な性格で、旅の間はとかく元気づけられていた。
彼女が故郷ごと魔王の力で消滅させられた存在だと知るのは、全てが終わってからだ。様々な書物を読み漁り、夢の雫の別な活用方法を見出し、そして夢の世界――幻の大地でも存在出来るようにした時、喜びの余り泣いた彼女に抱き着かれたのを今でも覚えている。
『あの子と仲良くしてやってね、エルド。本当は寂しがり屋さんなの。』
謎めいた雰囲気を持つ美しい女性は、そう言って控えめに、けれど確かな約束を求めて微笑んでいた。
儚いようでいて、実は一番強かったのは彼女だったのかもしれない。そんな女性が求めたのは自分の幸せでは無く、生き別れた弟の幸せだった。
『俺に構うな――といいたいところだが、敗者は強者に従うしかないしな。分かったよ、好きにしろ。』
……。
……。
蒼雷の剣士。仲間に誘った当初は始終不機嫌な態度で、孤高な雰囲気を纏わせていた。しかしそれは、裏切られて一人になるのを恐れていたが故の強がりだったと知るのは、彼が打ち解けて話してくれるようになってからだった。
『弱そうに見えて俺より強いとか反則だろ、お前。』
そのうちに――少し目を離した隙に――王族付きの中で最も高いくらいの職を目指していたようで、自力でそれを叶えた。
『これでいつでもお前の側に居られるぜ。……ずっと一緒だな、エルド。』
そう言って、彼は……テリーは、願いが叶った子供のように目をきらきらさせて喜んでいた。
なあ。お前は知っていてその職に就いたのか?
なあ、テリー。そうすれば俺とお前の距離がどうしようもなく離れてしまうことを、お前は知った上で――……?
彼が試験を受ける前に尋ねれば良かった。
けれどそれをしなかったのは、自分が求めていた答えとは違ったものが返されるかもしれないと恐れていたからだ。
怖かった。テリーが望んだのが自らの自立で、自分の側から離れてしまうことが。
「テリー、俺は――」
夢の中で叫び、反射的に手を伸ばす。
掴んだ感触と共に目を開ければそこに待っていたのは温かい過去ではなく……どうしようもなく無慈悲な現実だった。
◇ ◇ ◇
「ああ。起きたか。」
「……。」
柔らかな声、穏やかな眼差し。
まるで過去が還ってきたようで、エルドはいつもそこで涙を流す。
「……、――……」
相手の名前を呼ぼうと口を開きかけるも、それが悪夢の現実であることを認識した途端に言葉は消え失せ、代わりに吐息めいたものが吐き出される。
エルドの手を握っていた男が顔を歪ませ、唇を噛むのが見えた。
眼差しに昏い色が混ざり、柔らかに掴んでいた手を強く握りしめて、男は――テリーは、口を開く。
「……今度は誰の夢を見ていたんだ、王子サマ?」
「……っ!」
テリーがエルドの服を掴み、引き倒すようにベッドに押さえつけた。
強い圧力を受けて、ベッドが大きく揺れる。声を発しないエルドの代わりに、スプリングが悲鳴のような音を立てて軋んだ。静かな人形に圧し掛かり、その顎を掴んだテリーは低い声で問いかける。
「次は誰の名前を呼ぼうとした? トムか、ハッサンか、それともまた……フランコ“兄サマ”、か?」
「――。」
だがエルドは何も答えず、首すらも振らず、静かな目でテリーを見つめている。それがまた、テリーを苛立たせるのだとは知らないで。
「何か言えよ。」
「……っ。」
テリーが顎を掴む手に力を加え、言葉を閉ざした鳥の口をこじ開ける。
けれど、鳥は餌をねだらない。どこか遠い眼差しをした瞳を向けて、見つめ返すだけに留めている。
「――チッ。」
言葉を吐くどころか反応すらしない彼の鳥を、テリーは苛立った表情で睨みつけた。
眉間に皺を寄せた顔を近づけると、低い声で凄むように言う。
「まだ鳴けるだろ。ほら。鳴けよ。」
「……ぁ、っ」
こじ開けた口に人差し指と中指を入れ、その指先で彼の舌を挟めば、そこでやっと少しだけ表情を歪めるのが見える。しかし、それでも鳥は鳴かず……泣かず。流す涙すら見せずに、静かにテリーを見上げていた。
テリーの口から、もう一度短い舌打ちが零れる。
「俺が見えてるだろ? 聞こえてるんだろ、俺の声が?」
指先を絡めるようにして挟んだ彼の舌をその口内で弄りながら、テリーは尚も問い詰める。
「また俺じゃ足りないのか? ……三人でしても大人しくなったよな、お前。」
最初の頃はそれこそ絶望した表情で抵抗し、狂乱めいた声を上げて許しを請うていたのに、いつからかそれもしなくなった。
冷たい檻を抜け出して外へ逃げようともがいていた鳥が飛ぼうとしなくなったのは、いつだった?
鍵をかけるのを“忘れて”部屋から離れてみせても、シーツにくるまったまま羽ばたこうともしない。
誰も側にいない時は昏々と眠り続け、ふと思い出したように目を覚ます。
その時に側に居れば、彼がハッとした顔でこちらを見て口を開く素振りを見せることがある。
何かを――誰かの名前を?――言おうとするのだが、不意に体を震わせたと思ったら、その光を失った瞳から涙を一筋零して口を噤んでしまう。
紡がれぬ言葉はそうして飲み込まれ、いつも消えたまま紡がれることはなかった。ずっと。
「……何とか、言えよ。」
この身体をあばいたら、その言葉が見つかるだろうか。
それとも、そんなものは見つかりやしないのか。
「なあ……何か言ってくれよ。」
彼の口から指を引き抜き、テリーは言葉を重ねる。
唾液でぬらついた指先が、つっと糸を引いてエルドの口端を伝った。だが、当人から伝えられる言葉は無く。
「――っ!」
テリーが己の唇を噛みしめるのを、エルドは見る。怒りからそうしたというよりは、その顔は泣きだしそうな子供に似ていた。
「……。」
エルドは一度ゆっくりと瞬きをすると、腕を持ち上げて――「なっ、」――テリーを、抱き寄せた。
自分の胸元に押し付ける形で抱き込むと、その髪を、背を、軽く叩きはじめる。
「……っ……言いたいことがあるなら言えよ、王子サマ。……っ。」
テリーは押し殺した声で呻くも、しかし髪を掴むことも引き倒すこともしない。それどころか一層顔を歪めてエルドの背に手を回し、強く抱きしめ返す。母親に縋りつく子供のように顔を押しつけ、「何でだよ」と短く呻く。
「――。」
エルドはそんなテリーを暫く見下ろしていたが、やがて静かに息を吐くとテリーを抱き締めたまま目を閉じて夢の世界へ戻っていく。
その口から何かが零れることはついぞ無く、吐かれぬ言葉は目を閉じた彼の胸中でのみ形になる。
気づいているか、テリー。
お前も俺の名前を呼ばなくなっているのを?
思いはやはり伝えられず、触れあっている体温だけが空しく重なっていた。
Nemo enim potest omnia scire.