Paladin Road
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愛しきおまじない
深い深い夢の中、瞼の奥に浮かび上がるのは色鮮やかな記憶。
そよ風に舞う花の甘い香り。澄んだ青空に映える白い雲。溜め息が出るほどに美しい夕焼け。
それらが薫る季節を、懐かしく思う。
「……。」
エルドは胸の前で両手を握りしめると、四肢を竦めてブランケットに包んだ身を丸めた。
閉め切った部屋。外気の流れる様子はないけれど、エルドはいつも寒さを感じずにはいられず、こういう姿勢になる。
一度、見かねたこの部屋の主がシーツを取り替えたり、厚い生地のブランケットに換えたりしたのだが、変化は無かった。
部屋に暖炉をつけて火を入れても変わりなく、エルドは身を丸めて眠りに落ちる。
すっかり殻に閉じ籠もってしまった鳥は、何をしても、もう鳴かない。
寝床を暖めても凍えたように身を丸め、その身体を温めようと抱きしめても怯えたように竦ませる。
それでも、時々……緩慢な動きで、抱きしめ返してくることがある。
思わずその顔を見るも、けれどそこには何の表情も無く、虚ろな瞳があるばかり。そこで彼は――テリーは、その行動が無意識からのものだと思い知らされる。
そして、その日も――。
◇ ◇ ◇
その日も、テリーは自らの腕の中にエルドを捕まえていた。背後から覆いかぶさるようにしてエルドを抱きしめ、彼の脚に自分の足を絡めてみせるも、やはり相手からの反応は無い。
「……最近は、どんな夢を見てるんだ?」
自分よりも高い相手の体温を感じながら、テリーは話しかける。
「俺か、それとも……俺じゃない、誰かの夢か?」
エルドが反応しないので、それは独り言にしか聞こえないのだが、それでも、テリーは話しかけるのを止めない。
「……ここ、少し跡が残っちまったな。」
テリーは服の裾から手を忍び込ませると、エルドの腹をそろりと撫でる。そこには、肉が僅かに引き攣れた傷跡があった。
あの日、あの夜に、彼の城の一室で、テリーが突き立てた毒針によって出来た傷。致命傷には至らなかったものの――死んでしまっては意味が無い――王子様を昏倒させて、城から連れ出すにはそれで充分だった。
出来るだけ跡が残ることはしたくなかったが、今ではそれが所有印にすら見えて、少しだけ嬉しくなる。
テリーはエルドの強さを知っていたので、当初は薬か香を使おうかと考えていた。幾つかの呪いを混ぜ込んで使用すれば容易いことだと――いくらエルドが強くとも、所詮は人だろう?と――デュランに教えてもらったので。
けれども、テリーは知ってしまった。エルドがしようとしていたことを。
(俺は、裏切られたのか?)
テリーは絶望した。それを選んだエルドのことを。
(――裏切ったのか、俺を!)
深く思っていたからこそ、彼の行動には殺意すら覚えた。膨れ上がった昏い憎悪をその身に抱え、反射的に外へ飛び出し、向かった先は王子様の居る彼の城レイドック。
室内は無人だった。王子様はまだ執務中らしい。
テリーは構わずに鍵を開けると、中に入って彼を待つことにした。
途端に、時間を持て余す。部屋の主が帰ってくるのを待つ間、ベッドに腰を下ろして少し落ち着いたテリーは、暗い室内で考えこんでいた。
“アレ”は何かの間違いだったのではないか。もしかしたら自分の見間違いで、アレは別のことではなかったか。
エルドの執務室、その書斎の隅に隠すようにして置かれていたレターケースの中。レイドックでは無い王家の紋章印で封緘されていた。
開封済みのあの手紙。そこへ書かれていた内容を、テリーが思い出そうとしていた時だった。
廊下に響く、微かな靴音。近づく気配は二つ。そのうちの一つが待ち人のものだと、すぐに気づいたのは、まだ神経が昂っていたのもあったのだろう。
「エル――」
思わず腰を浮かしかけたテリーは、部屋の前で立ち止まった気配の主が交わし始めた会話によって、動きを止めることになる。
主君と従者にしては、親しい――近すぎる声の調子。そのやりとりを、テリーはドア越しに聞かされる。
くすぐったそうな声。照れた笑い声。
言葉の一つ一つが聞こえるごとに、テリーの胸中は、どくどくと早鐘を打つ。
目の前が暗くなり、目の奥が赤くなり、外の声が断片的にしか聞こえなくなっていく。
(その声は、俺だけのものじゃなかったのか?)
自分以外の人間に向けられた甘やかな声に、耳を塞ぎたくなる。
(その声で、呼ぶのか。そいつを、俺の知らない名前で。)
自分以外に放たれた甘える声に、爪を立てたくなる。
エルドが添い寝をねだっていたなんて――ねだっていた“おまじない”なんて、俺は知らない。
(なんで、そんな。……こんな。)
ドア一枚隔てた向こうで交わされるのは、恋人同士を思わせるやりとり。
テリーは、頭に上っていた血が覚めているのを感じた。……冷めていた。頭ならず、指先に至るまでの全身の血が冷えていく。
静かにベッドに座り直した時には、もう訊ねてみようとは思わなくなっていた。
「オ・ヤ・ス・ミ!」と、言う声がして、一つの気配が遠ざかるのを感じた。
どうやら、会話が終わったらしい。
ドアが開き、王子様が部屋に入ってくる。先程のやりとりで何かあったらしく、顔を俯けたままで入って来たので彼はコチラに気づいていない。
そんな彼を、微笑みを浮かべたテリーは待ち受ける。
その手には、“おまじない”に使用するための道具が一つ。
ただし、それは薬や香といった軽い者では無く、直接的な――使うことを躊躇していた――毒針。
けれども、結局は彼の王子に振るわれた。最後の“呪い”として。
そこに人の慈悲は無く、躊躇いも無く、ただただ真っ直ぐに貫いた。
己の忠誠が砕ける音を、聞いた気がした。
◇ ◇ ◇
そうして縫い留められた籠の鳥は、いま自分の腕の中に居る。
“まじない”の傷跡を撫でながら、テリーは再び口を開く。
「お前を凍えさせているのは何なんだ、王子サマ。」
シーツ。毛布。火のついた暖炉。幾らも温かさを重ねているというに、この鳥は、彼の王子様は、始終何かに凍えている。
「俺が抱き足りないのか?」
首筋に唇を寄せて囁きながら、腹部に添わせていた手を下肢へと滑らせる。
「こうしたら、少しは温まるんじゃ……ないか?」
快楽を引きずり出そうと、造形の輪郭を撫であげ、揉みしだき、柔らかに刺激する。けれども、返されるのは微かな震えと吐息めいた声だけで、大きな反応はない。その身体はどこもかしこも温かいのに――むしろ、熱いくらいなのに――なのに……どうにも、冷たい。
「……ッ!」
もはや癖になった舌打ちをして、テリーはエルドの腰を掴むとその奥へ自身を一気に突き立てた。
突然の衝撃に、エルドが一瞬びくりと体を跳ねさせる。
「……っ、ぁ……」
零れた短い声には、苦痛の為の微かな震えが混じっていた。緊張で強張ったエルドの背中を見つめながら、テリーが自嘲気味に笑う。
「なんだ……まだ、声が出せるんじゃないか。」
エルドの体を強く抱きしめて固定させ、自分のものを奥までねじ込みながらテリーはクツクツ笑いを零す。
「……ッ、ハハッ……もっと、声、だせ――よっ!」
「……イ、ァ……ぁ、っ、ぁあ――っ!」
深く埋め込んだまま揺さぶれば、途切れがちに掠れた声が聞こえてきた。
それは貫いているテリーのものを快感で締め付け――痛みで胸を締め上げる。
中も外もこんなに熱いのに、そのずっと奥が冷たい。
「あ、……っは、ぁ――っ!」
熟れた果実。どうすれば甘くなる?
相手を拘束したまま揺さぶる中で、考える。
「ふ、……っ、あっ……あぅっ」
凍えた鳥。どうすれば温まる?
思考の合間に軋んだ悲鳴が聞こえるが、構わずに強く突いて、突き上げる。
「う……っあ、はっ、ぁ……っ」
「ん――?」
何気なくエルドに意識を戻したテリーは、うつ伏せになった彼が上体を伸ばしてシーツにしがみついているのに気づく。
強すぎる快楽に溺れまいと、縋りついている?
――いや、違う。これは。
「――なに逃げようとしてるんだよ?」
「……ひっ――イッ……!」
這いずるように抜け出そうとしていたその腰を掴み、引き摺り戻すのと同時に再び杭を打ち込んだ。
「今更なんだよ? お前はもう逃げられないし――言っただろう? 逃がさない、って……なあっ!」
「アッ――ふ、っ……ア、ぅ、ぁあっ!」
両肩を掴んでシーツに押し付け、揺さぶる動きを加速させれば、くぐもった嬌声が軋むベッドの音に混ざりこむ。
反応が無いから甘く見ていたな。テリーは片眉を吊り上げて、組み敷いた相手を睨み付ける。うつ伏せにさせているので顔は見えないが、きっと苦痛で歪んでいるのだろう。……何も考えずにただ擦りあげているだけだから、痛みが生じている筈だ。
――しょうがないだろ? こうでもしないと、コイツは、なかないんだから。
久し振りに声が聞けて嬉しい反面、逃げようとする反応を見せてくれたものだから、憎い。
「寒いから、俺から逃げようとしたのか?」
この腕で抱きしめるだけじゃ、足りない?
ギシギシとベッドを軋ませて、押さえつけた相手に擦り切れた声を上げさせながら、テリーが見つめるのは滑らかな背中。
「……飯は食わせてるのに、やっぱり痩せるもんなんだな。」
肩甲骨付近の窪みが深くなっているのは、痩せたからだろう。日ごと夜ごと、こうして“体を動かして”はいるが、やはり気休めにしかなっていないことが見て取れて、テリーは苦笑する。
「運動量、増やした、方が、いいっ……かも、なっ!」
「――っ」
エルドは息を詰め、体内に“それ”が吐き出され終わるのをじっと待つ。シーツを強く握りしめるその指先は白く、微かに震えているのは快楽の余韻の為か、それとも――…。
「……おぞましいから、か? 王子サマ。」
埋め込んだ自身のものを引き抜きながら、テリーは独白めいた小さな声で笑い、肩で息をしている相手に手を伸ばした。
汗でしっとりとした肌は艶めかしく、静まりかけているコチラの欲を煽ってくれる。だが、テリーは行為を再開するでもなく、エルドの背中に視線を留めると、考え込むふうに沈黙した。
(そういえば、デュランに教えてもらった“呪い”の中に、面白いものがあったな。)
なかず、飛ばずの籠の鳥。
なかないなら……啼かせるまでだ。
「……なあ王子サマ……お前に、良いおまじないをしてやろうか。」
「……っ?」
欲望で濡れたテリーの声が、不意に穏やかなものになった。妙な雰囲気を感じ取ったのだろう、振り返ろうと身じろぐエルドの背を、テリーは左手で押さえつけると、空いている片方の手で懐から何かを取り出した。
「暴れるなよ……結構本気で、危ないからな?」
「……っ、に? ――ぁああっ!」
エルドの背中を、細く赤い筋が一閃する。
「あっ、ァアッ、イ、ッ、な、あっ……!」
ずきり、ずきりと断続的に痛みが走る。それは引っ掻いたという程度では無く、むしろ刺すような痛みに近かった。
いや、もしかすると切り裂かれているのか。シーツに爪を立てて歯を噛みしめるエルドの背後で、テリーの笑う声がする。
「っ、はは……やっぱり痛いか? まあ、すぐ済むから大人しくしててくれよ、な?」
「あ、ぅ――ぐ、ぁ……くっ……」
テリーの説明に、エルドは、されるがままに――抵抗できるわけも無く――背後で行われている行為が終わるのを待った。
それから、どれくらいの時間が経ったのかは分からない。
かつり、と何かが部屋の向こうに放り投げられた音を、エルドは聞く。けれども、床に落ちたそれが銀色のナイフであったことまでは知らない。息も絶え絶えになっているエルドの耳に、悪夢のような行為の終了を告げる声が届く。
「これでいいか……終わったぜ、王子サマ。」
囁く声がして、背中に何か濡れたものが触れた。
「ん――っ……は。……っふ、ん。」
痛みが生じている箇所に、吐息がかかる。ぴちゃりと水音のような濡れた音を聞いて、エルドはテリーが背中を舐めているのだと理解する。湿った生暖かいものが――テリーの舌が、痛みを受けた箇所をなぞっていく。艶めかしい痛覚に、エルドはますます顔を歪める。
「ははっ。……甘いな。」
うっとりとした声が聞こえたが、エルドは背中に残っている鋭い痛みによって、何も考えられなくなっていた。
がくがくと震えながら痛みが引くの待っていれば、ふと頭上に影が差す。ゆっくりと顔を動かして視線だけを動かしたエルドは、肩越しに覗き込むテリーと目が合った。
テリーは視線を合わせたまま口端を上げると、エルドの背中に右手を置いて微笑む。
狡猾な笑み。昏い狂気を孕んだ瞳には、見覚えがあった。
――身に覚えがある!
エルドの全身を、悪寒が駆け抜ける。
今度は何を?と視線で訊ねたエルドに、テリーが笑みを深めて答えた。
「“お呪い”だ。……まあ、人間には最初がちょっと辛いらしいけど――お前なら大丈夫だ。な?」
「な、に……っ!? ――あ、ぁ、あ……あぁあああっ!」
背中に走る痛みが熱を持ち始めた、とエルドが感じた瞬間、それは爆発した。
「な、ぁあ、あ、ぐ、うぁ、……アアッ……――ッ」
エルドが叫ぶ。
いたい。あつい。背中。なに。熱。なにかが。血。あふれて。ひ。火。焼ける。火が。痛い。痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
思わず、火でもつけられたのかと考えたが、何かが燃えている感じでは無い。感覚としてはよく似ていたが、それは火よりもずっと熱く、剣で貫く以上の激しい痛みがあった。
それこそまるで、雷を突き立てられたかのように。
「あぁああああぁあああっ!」
背後から押さえつけられているので、エルドは身動きが取れない。シーツを掴んだ手をがむしゃらに動かして耐えようとするのだが、予想もしなかったあまりの激痛は、限界に近かったエルドの精神を焼き切ってしまう。
「あ、……――っ」
短い吐息が零れ落ちるのと同時に、強張っていたエルドの四肢から力が抜けた。
ベッドの上に、くたりと伸びた王子様。動かなくなったエルドの背中を、傷を撫でながら、テリーが喉奥で哂う。
「新しい“お呪い”だ。次はきっと気に入るだろうぜ、王子サマ。」
テリーがそう言って撫でる彼の背には、赤い線がまるで何かの模様のように幾筋も走っていた。まさに刻印が如く刻まれたその一面は、ところどころから滲んだ血と冷汗とで、ぬらついている。
気を失った王子様の“寝顔”を眺めながら、喉を鳴らす獣。目を細め、機嫌のいい声で呟く。
「堪らない光景だな。……ハハッ。気絶してからも誘ってくれるなよ、王子サマ。」
そう一人で呟き、笑い、上体を屈めると、彼の背の赤い刻印にもう一度唇を寄せてキスを落とす。
「今度は俺とデートでもしてみるか? なあ、良い案だと思わないか、王子サマ?」
冷たい殻の中で身を丸めた鳥。温めれば孵化するかもしれない。
「……そうだ。暖かい場所に連れてってやるよ。」
凍える鳥の為に松明を掲げ、もう一度火にくべる薪を探しに行こう。
「……楽しみだな。」
愛しい愛しい籠の鳥。共に連れて、それこそ体の芯まで温まる大火を見せてやろう。
それできっと、彼の震えも治まる。凍りついた声も溶け、また優しい言葉が聞けるだろう。
「……すごく愉しみだ。」
くつくつ笑うその顔は、深淵の底に滴る血の色を思わせるほどに暗く淀んでいた。
Odi et amo.