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Paladin Road

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伝う竜涙、願うは抱擁


冷たい檻の中に居た。
首のチョーカーに繋げられた細い銀色の鎖が、時折肌が露出している部分に触れて冷たく感じるほかは、何の変化も無い。
誰の声もしない。誰も側に居ない牢獄の中で、一人きり。

まさに、お伽噺で出てくる捕らわれたお姫様のようだと思う。
金色の竜が守り、武人のような魔王が立ちはだかり、そして奥に進んだ王座に待ち構えているものは大魔王――……。

「……り、ぃ。」
呼吸に合せて零した声は、形になりきれず最後の音だけを残して消える。
ここは時間が狂っている。ああもう何もかもが狂ってしまっているのだろう。
部屋の隅に置かれた花瓶。生けられている花は枯れることなく咲き続け、床に散らばるくすんだ羽根は、埃も被らずその姿を留めている。
ここに誰も訪れなくなってから、どれくらい経つのだろう。
ただ一つ分かっているのは、終わりが近づいているということだけ。

「……ああ。」
終わりが来る。この世界は閉じられる。
青年は上体を起こし、シーツの上に手をついてその身を支えながら顔を上げた。
「……。」
何かが近づいてくるのを感じる。
ふと、空の匂いを嗅いだ気がした。

「……セ、バス」
太陽を感じさせるあの兜の明るさを思い出す。
「オル、ゴー」
命の温もりを感じる鎧は、多くの犠牲を払って守られ、伝えられた。
「ス、フィー……ダ」
盾に刻まれた十字架は、何に対して祈られたものだったのだろう。
「……ラミ、アス」
羽のように軽い剣の力を感じる。
揮えば雷鳴の輝きを放った美しい剣。ここへ完全に閉じ込められた際に大魔王に取り上げられてしまったが、あれは、あの雷だけはせめて側に置いておきたかった。
手放したくなかった。
かつての彼の心を。
青年は――エルドは両手で顔を覆い、小さく呻く。

「……これで、ようやく……っ」
やがて訪れる終焉を知った亡国の王子は泣きそうな声で呟き、それからどうしようもなく儚い笑みを口元に刻んで涙を一筋だけ零す。
「終わるんだ……これで、全部……終わって……しまう……。」
嘲笑か、憐憫か。静かに涙を流して泣き笑う彼の感情は、彼自身しか分からなかった。


◇  ◇  ◇


その竜は、冷たい石造りの廊下を這うように進んでいた。
眩く美しかった金色の体はどこもかしこも血に塗れ、傷つき、前に進むごとにその赤を撒き散らしている。
かつり、かつりと剥がれ落ちる金の竜鱗。
硬質な地に落ちるなり砕けて、無機質な音を立てる。

「――カハッ……。」
冷えた廊下に血の混じった息を吐き出し、それでも竜は歩みを止めない。
片目は目の上を斬られた傷から滴る血に塗れ、視界が塞がれていた。それでも竜は進路を変えず――見失うことなく、廊下の奥に続いている闇の向こうへゆっくりと歩いていく。

向かう先はただ一つ。
逢いたい人はただ一人。

「……え……る、……ど……ぉ」
その喉が震えて紡いだ声は、何処か少女の泣き声に似ていた。
かつり、かつり、と零れ落ちる金の欠片。それらは赤く汚れて砕け、冷たい廊下に錆びた金色の道を作る。
それは贖罪の証か、それとも制裁の鉄槌か。
その身を震わせ、ボロボロになった体を引きずりながら、竜は人気のない廊下の向こう――その奥にある鉄格子に向かって進んだ。

そうして長い時間をかけて辿り着いた格子前。
竜の身からは竜鱗が幾らか剥げ落ち、その全身は朽ちかけた赤金色に濡れそぼっていた。
『――。』
竜が何か――人のものでは無い言語――を呟けば、鉄格子が色味を失い透明に変じる。透けた向こうに見えるのは大魔王の檻――彼の人が居る静謐な柩たる寝所。
「エ……ル」
呟いた声と共に血を吐いて、竜は微笑みながらその中へ入って行った。
竜が室内に入るのと同時に元に戻る鉄の檻。
再び隔絶の領域となった室内で、竜は寝台の上で身を丸めて横たわっている人を見つける。

「ッ……ル、ド……」
床上の羽の海。それを引き摺るように踏み散らして彼の側へとやってきた竜は、その寝顔を見下ろしながらベッドの縁へと凭れかかった。
彼の近くに顔を寄せると、酷く小さな声で呼びかける。
「エル……エル、ド……」
「……。」
すると、目を閉じていた彼の人がゆっくりと瞼を持ち上げた。
竜に向けられた瞳は初めのうち感情が無かったが、微かに揺れて――優しく儚い微笑が滲む。

「久し振り……どうしたの。」
伸びてきた手が、そっと竜の右頬に触れてきた。指先が軽く血を拭い、剥がれかけている鱗をそろりと撫でる。
「ああ……怪我、してる、ね……」
その身はかつて彼を乗せて空を舞った時よりも遥かに小さくなっていて、今にも溶けて消えてしまいそうだった。青年の――エルドの口から吐息が零れる。
「……君も、戦ったんだ、な……“彼ら”は、強かった?」
竜が、頷く代わりにゆるりと瞬きをして首肯の意を示せば、エルドが「そうか」と呟く。
「戦わずに、逃げたら、良かった、のに……そうして、いれば、君は……君だけは、傷つくことも、無かったのに。」
「……っ」
竜の瞳から、ほろり、ほろりと涙が零れた。頬に触れている手に顔を摺り寄せ、掠れた声で言葉を返す。
「貴方を置いてなんか行けないよ、エルド……!」
ごめんなさい、と竜が泣く。
ごめんなさい、ごめんなさいと。
ベッドの上にくたりと頭を乗せて泣き、乞うのは己の罪では無く。
「エルドを置いて一人で行くくらいなら、私は貴方の側で逝くほうが、ずっと良い……!」
「…………バーバラ。」
「お願、い。もう、迷惑は掛けないから。我侭はもう、これで最後に、する、から――っ」
金色の竜が……かつて仲間だった少女が泣いて請うのは、どうしようもない終幕。

「だから、今は……最期はエルドの側で逝かせて。貴方の側に、居させて……っ」
「…………うん。」
少しの沈黙を置いてから、エルドがその瞳に哀切と慈愛を滲ませて頷いた。
「君の願いは、分かった。……じゃあ――おいで。」
そう声を掛けると、身を寄せてきた竜の――彼女の頭を、己の胸元に抱き寄せた。
濡れた血の感触。鉄錆に似たどこか甘い感じのする匂いに顔を顰めることも無く、竜の姿になったままの彼女の――恐らく戻る力が無いのだろう――その頭を、首を、優しく撫でて、穏やかな声で囁いた。
「そのまま、目を閉じて……君が眠るまで、こうしている、から。」
「……ありが、とう……っ」
バーバラは掠れた声で小さく泣き、エルドの胸に顔を擦りつけるようにして深く凭れかかった。
「エルド……ごめん、ね。」
目を閉じれば、彼の心音がとくり、とくりと、まるで優しい子守唄のように聞こえてきて、意識が遠ざかっていく。バーバラは、己の体から血と体温が失われつつあるのを感じながら、それでも微かに微笑んだ。
「エルの、からだ……あたたかい、ね」
「うん。」
「……ごめん、ね……わたし、テリーがなにをしようとしてるのか、知ってた、のに……とめなく、て」
「君だけの罪じゃ、ないよ。」
「ごめん、……ごめん、ね……わたし、エルのそばに、ずっと、いたく、て……だから……」
「バーバラ……いいから。」
エルドが彼女の目元を柔らかになぞり、頭を撫でて緩やかに抱き込む。
「俺は、何も恨んでは、いないよ。だから……謝らない、で。」
引き寄せた彼女の頭に軽く口づけて、エルドが言う。

「君が眠るまで、こうしているから……だから、ね――」
大丈夫だよ、と囁けば、腕の中に居るバーバラが小さく頷いた気がした。

「エル。」
「うん。」
「…………すき、だよ。」
「――うん。」
「――。」
それを最後に、彼女から言葉が返ってくることは無くなった。
上下していた体は動きを止め、その体は静かに氷のように冷たくなり始める。そんな彼女をエルドは暫くの間、抱き締めていた。その身から呪いが剥がれ、竜鱗と共に床上に落ちて砕け、白い羽根の上に金粉を散らせるまで、ずっと彼女を――バーバラをそこへ抱き留めていた。

Lacrimae pondera vocis habent.