Paladin Road
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つみびと下りて深層へ
炎の海に羽根を散らせながらコチラに向かって歩いてくる青年を前に、誰も言葉を発しなかった。
青年が歩くごとに羽根が抜けて落ち、熱気の中へ溶けるように消える。
彼はモンスターなのか、それとも人なのか。本来ならば警戒しなければならない状況なのだが、しかし誰も武器を構えない。それどころか息を詰めて見守りたくなるのは、その姿が何とも儚げなせいだろう。
羽根を散らせて歩いてくる青年は幻想めいていて、思わず魅入ってしまう何かがあった。
「大丈夫なの?」と、呟いたのは幼い少女。側に居た男が足元に縋る少女の頭を軽く撫で、「大丈夫だよ」と優しく囁く。
しかし、彼女が案じたのは自分の身の安全では無かった。
左右に広がるマグマの海。そこに一筋走る細い道をゆっくりと歩いてくる青年は、熱気が吹きあがる度に僅かによろめき、立ち止まり、そこへ白い羽根を散らす。
落ちやしないかとひやひやするが、かといって迂闊に動けない。道が狭く、何かの衝撃で青年を落としてしまいそうな気がしたからだ。
故に彼らは見守る。青年が自らここへ辿り着くのを、祈るような気持ちで。
やがて目の前までやって来た青年は、男たち――というよりは、その背後に視線を向けながら、口を開いた。
「……あいつ、は?」
「アイツ?」
声は若干掠れていたものの、聞き苦しい程までには傷ついていない。喉の辺りで祈るように両手を重ね、地面に視線を留めたまま短い質問を投げてきた青年に、男は答えを返す。
「君を閉じ込めていた魔王なら、私たちが倒したよ。だから、大丈夫だ。」
「……っ。」
青年が何処か怯えたような雰囲気だったので、安堵させるつもりでそう言ったのだが……相手は僅かに目を瞠り、それからきゅっと眉根を寄せた。
――彼には吉報では無かったのだろうか?
その表情は感謝しているようには見えず、それどころか一層強い愁いを帯びたように見える。心配になった男が言葉を掛けようとしたその時、不意に青年の唇が動いた。
「倒、した……。」
見つめた先の地面とその奥に広がる赤い染みに眉を寄せて零したその言葉は、掻き消えるような声音でいた。
「……倒され、た。」
はらりと落ちたのは、羽根か涙か。
青年は顔を俯かせて項垂れてしまい、沈黙する。そうして動きを止めた姿には、居た堪れなくなるような哀切があって――誰も何も言えなかった。
束の間の沈黙。
そんな中で動いたのは、最初に話しかけた男だった。
青年に向かって歩き出そうとすれば、ついと服を掴まれた気がして足を止める。
「お父さん……」と不安げな顔をして見上る少女に微笑み、男は言う。
「大丈夫だよ。君たちは此処にいなさい。……ピエール、ロビン。子供たちについていてくれ。」
男は裾を掴む少女の手に己が手にしていた杖を持たせると、後方の仲間に指示を残して青年に近づいた。
目の前で膝をついて視線を合わせ、話しかける。
「私はグランバニアの王、アレクだ。……君の名前を教えてくれないか?」
「お、う、さま……?」
控えめに己の身分を明かしたアレクに、青年が顔を上げる。見返す瞳に驚きの色が浮かんでいたが、二度三度瞬きをした後にはもう消えていて、憂いを帯びた瞳に戻っていた。
青年は短く息を吐くと、掠れた声で答えを返す。
「俺、は……、……エル、ド。」
「エルド? 何処かで聞いたような――。……っ、――まさか。」
今度はアレクが驚く番だった。まじまじと目の前の青年――エルドを見つめ、戸惑いと驚きの混じった声で問い返す。
「君は、レイドックの……“あの”レイドック城の王子なのか?」
「……。」
エルドは答えない。代わりに口を開いたのは、男の隣に居た金髪の少年だった。
「父さん、レイドックって?」
「ん……うん……。」若き父親はエルドを気にするように一瞥してから、純粋な疑問を発した息子に視線を戻し、その髪を撫でて寂しげに微笑んだ。
「……レイドック、というのは、かつて存在していたと言われる大国の名前だよ、フェル。」
「どうして仮定形なの? お父さん。」
次に会話に入ったのは、父の杖を持たされた少女。重ねられた質問に、アレクが苦笑する。
「その国に関する文献が、何も残っていないからだよステラ。それなりの大国であったらしいのに、存在していた証拠がほとんど見つかっていないんだ。」
アレクは、グランバニアにある大書庫にすらその国に関する資料が無いことを思い出す。
“亡国”レイドック。
大国の一つであるというのに、何の資料も残されていない謎めいた国の名前。
後世において発見されたのは、存在していたとされる場所が示された小さな石板が一つだけ。誰かの目を欺く為か、わざと星の運行に似せて描かれていたせいで、長い間それがレイドックの場所を示すものであるとはなかなか気づかれなかった。
一体、何から隠そうとしていたのか。
知られたくなかったのは場所か、人にか、それともそれ以外の“何者”か。
「その国に、何があったの?」とフェルが純粋な興味から聞く。
「……何があったんだろうね。」
自分を見上げて訊ねる息子の頭を軽く撫でて、アレクは答える。
「彼の国については本当に何も分かってはいないんだよ。ただ、辛うじて発掘された遺跡にはこんな詩篇があったらしい――。」
そこでアレクは儚げに立っている青年に目を向けると、彼に語るようにして言葉を続けた。
「――“その夜、雷鳴轟き、彼の国、一夜にして混沌に飲まれ、全て焦土と変わりたり”……と。」
「……。」
亡国の王子は眉を下げて少し寂しげな笑みを浮かべただけで、何も答えない。アレクが悲しげに表情を曇らせ、子供たちが痛ましい顔になるのを見つめている。
ステラという名の少女はその双眸に涙を滲ませ、フェルと呼ばれていた少年のほうは悔しそうに唇を噛んでいた。
知らぬ亡国の為に涙し、憤ってくれる見知らぬ人たち。そんな彼らを見てエルドは済まなそうな顔をする。それから目を伏せると、ぽつっと呟いた。
「……やっぱり、あれは現実だったんだな。」
「エルド王子?」
アレクが「何か言ったか?」というように首を傾げたが、彼の王子は首を振り、ただただ寂しげに微笑むばかり。
火の粉舞う、業火の海。
金の竜の背に乗せられて見たあの光景は、やはり夢ではなかったのだ。
見たものは幻では無く、そして祖国は幻となってしまった現実にエルドは今更ながらに打ちひしがれる。
けれども、もはや彼らは還らない。罪は償えず、贖罪は残されたまま。
何もかもが元通りになることは、もうない。血が、命が、とかく多く失われ過ぎた。
しかし、自分がすべきなのは神に祈りを捧げ、失われたものに謝罪することではない。
見なければならない“現実”があった。
為さねばならない“使命”があった。
ああ、自分がこの物語を終わらせなければ全ては終わらない。
終わりにならないだろう。この物語を、あれを、ここまで歪ませてしまった原因であるのだから。
「――っ。」
エルドは首から下がる銀鎖を握りしめると、“結末”が横たわる地面へと視線を向けた。
Sera, tamen tacitis Poena venit pedibus.