Paladin Road
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終わる物語
古代魔法でも失伝詠唱でもなんでもない、ひとつの言葉が呪いを解いた。
緋色の瞳が滲み、薄い青が混じる。それは更に色を変え、遂には深い赤紫色へと変化した。
銀の髪に映えるアメジストの瞳。その魔王の――テリーの眼の下をそっと指の腹でなぞり、エルドが微笑む。
「“お帰り、テリー”。」
「――っ、はっ、……お、前――」
その言葉を受けたテリーの瞳から、涙が一筋零れた。
懐かしくも遠い過去を思い出させる穏やかな微笑み。それは作り物では無い、かつての。
テリーは弱々しく相手の手を握り返し、血を吐いて笑う。
「はは……なん、だよ……俺の、な、まえ……覚えて、いて、くれた……のか……」
「忘れるわけないだろ……俺の、聖騎士殿。」
「そう、か……はは……ああ――俺の、おうじ、サマ――」
血で濡れた手が、エルドの指先を軽く掴んだ。それは酷くゆっくりとした動作で持ち上げられて――。
「……――エルド。我が、マイ、ロード……。」
弱くも確かな力で引き寄せられたそこへ触れたのは、唇。
放たれた言葉と共に手の甲に落とされたのは、遠い日に傅いた彼の忠誠。
そのまま永遠の刻印となる筈だった。擦れ違うことが無ければ。
テリーは目を閉じ、血の味のする吐息を零す。
きちんと言葉を交わし、それぞれに抱いた迷いを明かし、はっきりとした想いを伝えてさえいれば、こんな結末にはならなかっただろうに。
「エル、ド……俺、は――」
告げようとした罪科は、しかし柔らかな何かで押しとめられた。
唇に触れていたのは優しい指先。目を開けたテリーは、涙で滲む視界越しに陽だまりのような微笑を浮かべている彼の人を見つける。
「俺も一緒だって……言っただろう? テリーだけの、罪じゃない。」
「お前……」
捨てた筈のものが、失ってしまったものが、まさかこんな近くにあるなんて。
「良い、のか?」
「当たり前だろ。」
交わされる微笑み。
だが、安寧の時間もそこまでだった。
次の瞬間、背後で大きな火柱が上がる音を二人は聞く。
「エルド! エルド王子! 君はそちらへ行くべきじゃない! 戻るんだ!」
炎の向こうから、必死に喚びかけてくるアレクの声が聞こえてきた。
彼の方には、まだそこまで火が回っていないのだろう。彼が手にしていた竜の杖からは不思議な力を感じていたから、それで逃げ道を維持してくれているのかもしれない。
けれども、エルドは動かない。ただ僅かに振り向いて炎越しに微笑むと、届くか分からない言葉を返す。
「俺は行けないよ、アレクさん……だって、そこには、テリーが、いない。」
テリーは、ここに居るから。
俺の世界はココに在るから。
だから……。
「俺は、こいつと――テリーと一緒に逝きたいんだ。」
「なんっ……」
噴き上がり、天井まで届いた火柱を挟んで告げられた言葉に、アレクは息を飲んだ。彼は強く杖を握りしめると、悲痛な声で叫び返す。
「――間違うな! それは救いじゃない! ……そんなものは救いなんかじゃない!」
泣きそうな顔をして叫ぶアレクの声を聞いて、エルドは少しだけ申し訳なくなる。
けれども、これは救いだ。誰が何といおうとも。
これだけが救いになるのだ。誰に許してもらえずとも。
生きて贖うには、犯した罪が大きすぎた。奪いすぎた。多くの命を。
熱気と崩壊の広がる迷宮の底。
今なお足掻き、諦めずに救いの手を差し伸べる人を見つめてエルドは最後の言葉を吐く。
「貴方はもう行ってくれ、アレクさん。貴方の生きる道が消える前に。」
「駄目だ、エルド、君も私と共に――……っ!」
手を伸ばし、前に進み出ようとしたアレクだったが、それを阻止するように崩落した天井が雨のように落ちてきた。
マントで口元を覆い、後退るアレク。それでも相手を説得しようと視線を前に戻したアレクは、熱気で揺れる視界の向こう、落ちてくる岩の破片からテリーを庇うように抱きしめる青年の姿を見る。
エルドはもうアレクを見ておらず、腕の中に居る相手に向かって何かを語り掛けているところだった。
遮断された道の先。
エルドは抱き寄せたテリーの髪を梳きながら、優しく告げる。
「さあ……眠ろう、か。そして、還ろう……俺たちの、世界へ。」
「……ああ……そう、だな……」
「じゃあ、また、な。」
「ああ……また――」
またいつか、お前の側に。
テリーが小さく頷き、先に目を閉じた。そしてエルドは、動かなくなった心臓の音が消えた胸の上にことりと頭を乗せて、微笑む。
「……おやすみ、テリー。……おやすみなさい。」
目を閉じる間際、エルドは炎の向こうに立ち尽くすグランバニア王を見る。
揺らめく熱気の中で、彼はどこか泣きそうな、憐れむような眼をしていた。
けれども、エルドはただただ幸せそうに微笑んで――亡国の王子はそうして、己の国を滅ぼした魔王と共に炎の海へ静かに飲まれていく。
煉獄の底で、彼らは幸せそうに微笑んでいた。
それを見届けたアレクは唇を噛み、小さく呻く。
「僕は君を救いたかったよ、エルド。……せめて、君だけでも救えたら――」
アレクは竜の杖を掲げて竜の身へと変じ、落ちてくる岩を避けながら魔王の住処を後にする。
その目から涙が一筋流れ、気流を伝って空に散った。彼らに手向けるようにして。
「……エルド。それから、私の知らない魔王だった君。その罪はどうにもならないだろうが、それでも僕は君たちの魂に安息の祈りを捧げるよ。」
竜の身に変じた男はそう呟き、澄んだ空を滑って自分の居場所へと帰っていく。
すっかり遠ざかった空の果てから、その場所が崩壊する音を聞きながら澄み切った空を飛んで家族が待つ家路に向かった。
◇ ◇ ◇
それから後、名も無き竜は探す。
一国の王子と、とある魔王が生きた詩片を。
しかしながら、辿り着いた真実を謳うことは無く――誰にも知られぬまま、廃墟の中へ埋もれたままにさせておいた。夢物語では無かった故に。幸せなお伽噺からはほとんど遠ざかっていた代物であるが故に。
子供たちには語れない。寝物語として話すには、悲しすぎたから。
誰にも明かせない。その夜はどうにも深すぎて、明けることが無かったから。
それでも長く続いた彼らの暗夜は明け、炎の海へ身を沈め――風に巻き上げられ、きっと空へ……共に、逝けたのだろう。そう、思いたかった。
◇ ◇ ◇
かつて栄えた城の跡。
魔王に滅ぼされ廃墟と化したその場所に、誰かがとある樹の種を植えた。
それは何時の間にか大樹となり、その根元に誰かが石を置いた。
石には何も刻まれていなかったが、いつも小さな花が添えられていた。
その一帯に咲き誇る空の色を映したようなその花の名前は、誰も知らない。
だが、花を添えている誰かに会うことが出来たなら。
何もかもを知っているような優しい瞳をした男と出会えたなら、花の名前とそれにまつわる話を少しだけ聞かせてもらえるかもしれない。
小さな“跡碑”に寄り添うように咲いている花の名は、騎士待草。
そして語られるは、恋歌にも似た遠い昔話。
詩篇の名は、パラディンロード。――かつて天空の騎士と亡国の王子が生きた道の痕跡。
ただし、結末を語られることは決してなく。
故に誰も知ることはなく、知られることも無く、空と花の美しい青に包まれてただそこに在るばかり。
Nemo ante mortem beatus.