空に響く焦がれ唄
9
訪問者が来る。
初めは数日、間を置いてから来ていたのに、それは次第に間隔が短くなり、遂には二日おきに来るようになった。
幾ら邪険にしても効果が無いのか、相手は華のある笑みを浮かべて反抗する。
そんな日が、続いていた。
そして、これからも続いていく――筈だと、思っていた。
◇ ◇ ◇
「……。」
ここ一週間、その訪問者が姿を見せていない。
望んでいた筈の静かな空間が、今はどうしてか苛立つ。
彼の存在が無いだけで、音が無い空間がこれ程とは。
静寂などで眉を顰めるような事は無かった筈だというのに、今の自分の有様は何事か。
「……馬鹿か、俺は。」
その時、脳裏に思い浮かびかかった考えを即座に切り捨てて、マルチェロは室内で舌打ちした。
元々、煩わしいと思っていた。それが無くなったのだから、良い事だと。
無理にそう考え、中断した書類作業に目を通し始めた。
◇ ◇ ◇
音も無く、戸の開く気配がした。続く人の存在感の出現に、マルチェロは顔を上げる。
視線の先に居たのは、例の訪問者。
ようやく姿を見せた彼の人に、つい笑いかけようとする自分が居て、慌てて首を振った。
「――また用事も無いのに来たのか。」
そうしていつものように不機嫌そうに呟いて見せれば、相手はにっこり笑って。
「はい。用事が無いけれど、来ました。」
そう言いつつ戸口にでも立って、まるで鑑賞物にするかのように自分を眺め始めるのだろうと思った……のだが。
「……ごめん、なさい。」
「……。」
そんな弱々しい返事が返ってきただけだった。
思わず顔を上げ、そのままエイトを凝視するマルチェロ。だが相手は目を伏せて、戸口に縋るようにして立ったままだ。
こうも覇気がないエイトを見るのは初めてで、マルチェロは作業をするのを止めて話しかける。
「――何だ、気味が悪いくらい元気が無いな?」
「……そう、ですか?」
「久し振りに顔を見せたと思ったら、鬱陶しい表情をして戸口に佇み沈黙か? 今度は何の遊びだ。」
皮肉を込めてからかうように言ったのだが、エイトが一層深く項垂れてしまったので、マルチェロはその反応に心の中で首を傾げる。
この正体の無さは、一体どういうことか。
エイトの心境がどうにも把握出来ず、かといってこのままにしておくことも出来ず。
マルチェロは席を立つと、エイトの立つ戸口に向かって歩きながら言った。
「……貴様に何があったかは知らんが、そのままで居られると辛気臭くて集中出来ん。――付いて来い。」
「え、あ、あの……」
「来る気が無いなら、帰れ。――先に、行く。」
言うなり踵を返して廊下を歩いていくマルチェロに、エイトは暫しおろおろしていたが、やがてそのままで居るのが嫌になったのか、慌てて彼の後を追った。
◇ ◇ ◇
着いた先は、いつものテラス。適度に飾られた、単純ながらも華やかな空間が久方ぶりにエイトの視界に広がる。
エイトの表情に僅かだが気力が戻ったように見え、当人に気づかれぬ程度にマルチェロが口端を上げた。
「いつまでそうして呆けているつもりだ? 座らないのか? それとも、立っている方が好みなのか。……まあ、俺はどちらでも構わないが。」
と声を掛ければ、相手が振り向いて首を振った。
「いえっ、……座り、ます。」
エイトが椅子を引いて座るのを見てから、マルチェロが用意しておいたティーセットを運んで来る。
そして順々に目の前に並べてやっていくと、それを見ていたエイトが目を丸くした。
エイトの前には、いつもより皿が一つ多い。
「あ、これって……?」
余分の皿の上、そこに鎮座するように置かれたものを見て、エイトの顔がみるみる嬉しそうになっていく。
そう、それは前に帰り際、エイトが付け加えてみたもの。
白く滑らかな、三角形。
『今度は、ケーキがあると嬉しいですけどね。』
実現されそうになかった発言なのに、今こうして叶えられていることが嬉しかった。
「……これを、私に?」
そう目を上げて問えば、マルチェロが不機嫌そうに、けれど誇らしげに頷く。
「そうだ。言っておくが、その辺で売っている安物では無いからな。」
マルチェロの言い方に、エイトが思わず笑う。
「そうですね。それじゃあ……心して、ありがたく頂かせてもらいます。」
フォークを手に取り、切り分けて口に運ぶ。
――甘い。
目を上げて正面を見れば、相手が両腕を組んで外の景色に目をやっていた。
風が静かに凪いでいる。
相手の長い黒髪が、その度に揺れるのを目で追いながら、エイトはケーキを食べていく。
外は快晴で、その下でこうしてティータイムをしているというのは、贅沢だなとエイトは思う。
しかも、目の前に居る相手は自分が望む人でいて。
くつろげる、居場所。
ささやかな、幸せ。
俺の、場所。
……でも。
それも、もう直ぐ無くなるんだと思ったら――。
「おい、どうした。」
「……え?」
「なぜ……泣いているんだ。」
言われてから、そこで気がついた。
自分の頬を伝うものが、自身が流している涙だということに。
目を落として見れば、白いテーブルクロスに、黒い斑点模様が幾つも出来ていた。
それはクロスに滲み、奇妙に滑稽な形に歪んでいる。
まるで今の自分の心のようだと思った。