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空に響く焦がれ唄

10



白いクロスの上に、ぽたぽたと。
涙が落ちて、模様を作る。
それは単なる丸だけど。
後から後から、流れて落ちる。
落ちては一つ二つ丸い黒を作り、そして重なって模様が出来ていく。
エイトはそれらが落ちていく様を眺めながら、ゆっくりと手の甲で目元を拭う。

けれど、涙は止まらず──止められず。
尚も、流れて落ちていく。

「……何故、泣いている。」
そうマルチェロに問われても、エイトは顔を上げる事が出来ず、目元を隠すように片手で押さえて言い返す。
「わ、わかりま……せっ……な、何でか……いきなり、……っ」
止まらない、涙。
止められない、涙。

分からない、と言ったけど、それは嘘。
本当は、分かっている。

「……幸せ、過ぎて、……嬉しくて、泣けてきたの、かも。」
なんていう、つまらない嘘を重ねて一気に涙を拭うと、顔を上げて。
「馬鹿ですよね、私は。ほんと──何、泣いてるんだか。」
にっこりと、笑う。
上手く笑えているのか知らないけれど、とにかく笑ってみせた。
けれど相手の表情は次第に硬化し──気づけば、酷く険しいものなっていた。
エイトから完全に笑みが消える。
「あ、……あの…………すいません。」
目を伏せ、また項垂れそうになるエイトに、マルチェロが口を開いた。
「項垂れるな。」
「え?」
「項垂れるな、と言っている。……貴様、そういう女々しい人間ではなかっただろうが。」

このエイトという人間は、普段は物腰柔らかな口調と態度でいるが、戦闘時には別人だと思わせる程の振る舞いをしてみせることを、マルチェロは知っている。
実際、対峙して――剣を合わせてみて、分かった。
その目は研ぎ澄まされた刃のように怜悧で鋭く、けれど合間に浮かべてみせる微笑は恐ろしく艶やかで。

崩壊した聖地で戦った時、生死が交差している最中だというのに、恐怖と同時に興味が湧いた。

こいつは、戦いの場に於いて見せるこの姿が本性なのだ……と。
少なくとも、マルチェロはそう感じた。
あの、一瞬間の中で。

だから、こうして今、頭を垂れて涙を零すエイトの姿に苛立ちを覚える。
理由が解らない分、余計に。何かが募っていく。苛立ちと共に、何かが。
「貴様の泣く理由が分からん。なのに、そういうことをされても、俺は何も出来んぞ。」
慰めていいものか分からず、従って出来ることは一つ。

――何も、しない。

「慰めて欲しいのか? ならば、俺はそれには向いていない。……他を、当たれ。」
その言葉にエイトが笑う――が、もうそれは笑顔には見えない。
今にも泣き出しそうな顔で、エイトが呟いた。
「他、なんて……無いさ。」
「……? 何を言っている?」
口調の変わったエイトを見て、マルチェロが眉を寄せた。
視線が一瞬絡む……が、それは相手に直ぐ逸らされ、心情を読み取ることは出来なかった。

「貴方が、それを言うのか。」
辛そうに顔を背けるなり、エイトは唇を噛むと急に席を立った。そして何かを否定するように、ゆるゆると首を横に振り、口にするのは同じ言葉。
「俺に、他に行けと……」
「……だから。さっきから何を言っているんだ貴様は! そもそも、きちんと説明しなければ何も分からないだろうが!」
マルチェロも席を立ち、そして要領を得ないことばかり口走るエイトに近づき、掴みかかる。
「元気になったと思えば、突然泣き、訳の分からんことを言う! 一体なんなんだ、貴様は! 何をして欲しくてここに来たと――……っ」
マルチェロの言葉は、そこまで言って不意に止まった。
また、エイトが泣いていたのだ。
それも先程とは違い、静かに泣くのではなく涙がぼろぼろ零れ出している。
その涙の多さに、ぎょっとするマルチェロ。
「な、何でまた――」
「……な、く、……なって……。……に、……は……」
「何?」
訊ねたマルチェロに、向けられたのは慟哭。
「無くなっていくんだ……何も、無いんだ、俺には。この世界に、俺はもう必要ないんだ!」
エイトがマルチェロを睨み付け、叫ぶ。
「でも、それでも……幸せがあったから……ささやかだけど、あったから、俺は生きてきたんだ! ――なのにっ……!」
涙を拭おうともせず、マルチェロを見据えてエイトは言葉を繋ぐ。
「それすらも、もう無くなる! そうなったら、……そうなったら……っ!」
ぐっと前へ身を乗り出し、吠え立てる。

「――俺は……どこへ行けば良い……っ……どう、生きていけば……っ、他に、生き方なんか知らないのに……どこに行けと――」
今にもマルチェロに掴みかからんとしたエイトだったが、急に俯くと、そのまま逃げるようにして部屋を飛び出していった。

「……何だと……いうのだ。」
後に残されたマルチェロは、どうしていいか分からず、結局彼の後を追うことが出来なかった。
テラスに立ち尽くしたまま、白いクロスに落ちたエイトの涙の跡を見つめる。
素顔を垣間見せられた、と思った。
感情をぶつけられた気がした。

けれど、エイトが泣いた理由は謎のままで。
マルチェロは目を閉じ、エイトの言葉に何かヒントが無いかと思い返す。

『他、なんて…………無いさ。』
(何故だ? あいつの人当たりのよさなら、他にも身を寄せる場所はあるはずだ。)
いやむしろ、放って置いても人が寄ってくるだろうに。

『無くなっていくんだ……何も、無いんだ、俺には。この世界に、俺は必要ないんだ!』
(あれは、どういうことだ。あいつに、何も無いだと? この世界に必要ない、だと?)
否、世界は必要としていた筈だ。だから、あいつは仲間と共に世界を救うことが出来た。
道化師から、俺から――暗黒神から、この世界を守った。

それなのに、必要ないというのか?
平和を導いた人間が、この世界に不要だと?
こんな俺でも、またこうして生きていけるようになったというのに。

いや、待て。
まだ、何かが引っかかる。

『幸せがあったから……ささやかだけど、あったから、俺は生きてきたんだ!』
『それすらも、もう無くなる!』
ささやかな幸せがあるから、あいつは生きてこれて――それが直に無くなる?

「ささやかな、幸せとは――何だ?」
この辺りに何かある。
そう考えたマルチェロは閉じていた目を開けると、テラスを出てある人物と会うことにした。
それはエイトと共に旅をしていた彼の「仲間」であり、また自分の良く知っている人物でもあった。
少しばかり気が進まなかったが、それは恐らく向こうも同じであるのだろうけど。