空に響く焦がれ唄
12
透き通った青天が広がる。
白い雲が転々と浮かび、陽光を浴びて鳥が輪を描いて飛び去った。
風光明媚、そんな言葉が当てはまる世界で――泣き駆ける者が、一人。
あの場から飛び出したは良いけれど、行く当ても落ち着ける場所も思いつかなかった。
そうして、次第に増幅するのは悲しみ。
俺は泣きながら、草原を駆ける。
明るい世界、幸せだけが広がる世界は、俺を追い詰めていくものでしかなくて。
俺は、もうどうして良いのか分からず、ただ走った。がむしゃらに。
どこに救けを求めて良いのか――……もう、分からなくて。
◇ ◇ ◇
「エイト。気分は、どうですか?」
「ん……。うん……。まだ、悪い……。」
目の前で自分を心配げに窺う相手を見ながら、俺は言葉少なに頷いて目を逸した。顔なんかまともに見られない。見て欲しくない。
机の上に置かれたカップを両手で挟み、視線から逃げるように項垂れた。
ここは、異空間。月の世界。
イシュマウリの住処。
気づけば、俺はここに来ていた。
俺の記憶は、草原を走っていたところまでしか無い。
気づけばイシュマウリに抱き止められていた。子供みたいに、あやされるようにして。
落ち着いてから話を聞いてみれば、どうやら俺は、半狂乱になってここへ駆け込み、出迎えたイシュマウリを見た途端に、その場で泣き崩れたらしい。それも、盛大に。
イシュマウリはというと、そんな俺の状態に驚きながらも傍に寄り、子供をあやす様にずっと背を撫でていてくれた。
”らしい”と言うのが付いていないのは、ここで俺が正気に返ったからだ。
『エイト、エイト……? 何か、あったんですか? 大丈夫、ここには貴方を傷付けるものは在りませんから。だから、泣かないで。落ち着いて、エイト。』
静かな声に、俺は次第に我を取り戻していく。
乱れた呼吸とバラバラになった思考が、緩やかに一つになっていくのを感じた。
「……イシュ、マウ……リ……ッ!」
そう俺が声を出せるようになってから、ゆっくりと顔を上げると、そこには穏やかなイシュマウリの微笑があって。
「エイト。」
名を呼ぶ声が、あんまりにも優しすぎたから。
「イ、……シュ……~~っ!」
俺はまたボロボロと涙を零して、大きく咽び泣く。
そうやって二回ほど泣いてから、ようやく落ち着きを取り戻したのだった。
◇ ◇ ◇
カップの中を見ていると、自分の情けない顔が歪んで見えた。
「……はぁ。」
口から漏れるのは、微かな、けれど重い溜め息。
事実、自分が酷く情けない。
イシュマウリはというと、何も聞いてくるようなことはせず、俺から話し出すのを待っていてくれている。
いや、俺がこのまま何も話さなくても、このままにしておいてくれるのだろう。
この月人は、優しいから。
静かな月のように、柔らかな光を湛えて、ただ緩やかに傍に居てくれる。
「イシュマウリ、俺……。」
「はい。」
「あの、俺……。その――」
ゴメン、と。
謝るのと。
アリガトウ、と。
お礼を言うのと。
どっちが先に言いたいのか、言葉が頭の中で一緒になって、俺はそのまま何も言うことが出来なくなった。途切れる会話、不自然な沈黙が室内に満ちる。
「無理を、しないで。そのどちらにも優劣は無いんです。だから、良いんですよ。気持ちは伝わっていますから。」
イシュマウリの言葉を聞いた俺は、頷いて。
「……ありがとう。」
今度は、素直に言葉が出た。
静かな空間が、俺を癒す。
このまま、全て忘れることが出来たなら。
悩みも悲しみも、全部。
あの人のことすらも、今はもう――……忘れてしまいたい。
そしたら、きっと、楽になる。楽になれる。
だから、俺はもう諦める。この想いも、何もかも全部埋めて、無くして、忘れる。
それで、良い。
……なんて、嘘。
忘れることなんて、出来ない。諦めきれない。楽になんかなれない。
あの人に想いが届かなくても、願いが叶わなくても、側に、居たい。
「……マルチェロ……。――っ……。」
名を呟けば、吹き零れてくる感情。
未練だけが重なっていく。
好きだ。
好きだ。
やっぱり、どうしても。
「側に、居たい……俺を見なくてもいいから……」
「エイト……。」
「マルチェロまで……俺を置いて、いかないで……っ……いや、だあ……っ。」
カップの中に、涙が落ちて波紋が広がる。
忘れたい、忘れたくない。放っておいて、置いていかないで。
ああ、何て不安定なんだろう。気持ちがバラバラで、まとまらない。
「イシュマウリ、イシュマウリ……俺、どうしたら……どうすれば……っ」
苦しくて苦しくて、縋るように呼ぶ名は思い描いた人のものではなく。
「……エイトは、どうしたいんですか?」
その言葉に引かれるように顔を上げれば、寂しげで優しい表情と目が合って。
儚げな空気を纏う人の問い掛けは、やはり優しいもの。
「決めるのは、エイト自身です。どう、したいんですか?」
「俺、が……決める? ……俺、俺は……もう――……忘れて、しまい……たい……。」
「それが、望み? エイトは、それを望むのですか?」
目を伏せてこくりと頷けば、相手の手が、そっと頬に触れる。
少し冷たい、心地の良い、手。
「本当に、それが貴方の望みで良いんですか?」
「……。」
真っ直ぐに問いかけられ、戸惑いが生じる。
俺がこうして未練がましくいるのは、相手の重荷になるだけだ。
だって、あの人は結婚するから。
だから俺が側に居ると邪魔になる。冷静でいる自信が無いから、きっと邪魔をしてしまう。
そんなことになれば、あの人は俺を切り捨てるだろう。比喩的に。もしくは物理的に。
ならばせめて、負担にならないようにしたい。
……嫌われたくない。
「記憶、を……消して欲しい……。あの人に関する想いを、全て……」
届かない想い、けれど捨てるには忍びなくて。だから、せめて。
凍らせて、抱く。
胸の奥、ずっと奥深くに。
それだけは、どうか許して。
目を閉じて許しを乞うた相手の姿が、そうして浮かんで――消えていく。