Daily Life *M 【3】
雨の日の相合傘
「――何をしているっ!」
ある雨の日のこと。
書類整理がひと段落したので、休憩しようと執務室を出て廊下を歩きかけたマルチェロだったが、ふと対面の廊下の窓を見るなり叫ぶ羽目になった。
廊下の対面――その窓際には、人影ひとつ。
トロデーン城の兵士、エイト。彼はマルチェロの声を聞くなり、肩越しに振り返って笑顔を向けた。
「あ、お疲れ様です。もうお仕事は片付いたんですか? それとも、小休止で――」
「そんなことはどうでも良い! 貴様、何をしているっ!」
「え? 何って――……」
エイトは窓ガラスに付けていた指先を離すと、首を傾げて。
「――相合傘を、書いていました。」
そう、マルチェロが思わず叫んだのは、窓ガラスに書かれたソレだった。
そこには、傘の絵らしきもの、そしてその下に並べられた名前。
エイト
マルチェロ
まあ、ここまでは良くはないが、一応良しとして。
問題は、その上部――傘の絵の上に、ハートマークが描かれていたものだから、堪らない。
ちなみに、ココはマイエラ院内。エイトとマルチェロの関係は、勿論のことだが周囲に口外していない状態だ。
いいやむしろ他者に露呈しないように気を張っているのだ。
第一、言えるわけが無いし、感づかれたくも無い。
マイエラきっての優秀武官が衆道に走っているなどというのは、充分に醜聞事であるから。
だからこそ、この目の前の落書きはマルチェロの努力を無駄にしかねない代物なわけで。
「……それを、消せ。」
眉間に深い皺を刻み込んだマルチェロが言えば、エイトが至極残念そうな顔をして言い返す。
「えー。駄目なんですか? 折角、上手に書けたのに……。」
「巧拙の問題ではない! いいから、それを消せ! 今、すぐに!」
「……一時間。」
「何?」
「俺に、一時間付き合ってください。そしたら、消します。」
「何を言っている。そんな暇は、無い。」
「じゃあ消しません。」
「馬鹿なことを。――いい。ならば私が消す。」
マルチェロはそう言うと、エイトを僅かに押しのけて、窓ガラスに書かれたそれを手で払うように撫でた。
――が。
「なっ……何故だ!? 何故、消えない!?」
曇ったガラスに付いた、ただの水滴の筈なのに、それは尚も原型を留めていた。
側で、ふふん、と得意げに笑う声。
「甘いですね。材料は水滴ですけど、書く時に失伝魔法を使ってます。手で撫でるくらいじゃ、消えませんよ?」
「失伝、魔法……」
どうしてこいつはこうも、折角持ち合わせている高い知識を無駄なことに使うのか――……。
マルチェロが、大きく溜め息を吐いた。そして額に手を当て、一言。
「分かった……貴様の要求を呑もう。」
「本当ですか! ありがとうございます。」
「……感謝は良いから、早くそれを消せ。」
「はい!」
エイトがにっこりと微笑み、落書きに触れる。そして何事か呟いたかと思うと、それはゆっくりと消え、あとには何も無く。
「えーと、えーとですね。俺、今日は美味しい紅茶の葉を持ってきたんです!
淹れかたも、マスターしてますから!」
「……そうか……。」
「あと、あとですね! ええと、他にも……!」
「分かった、話は、室内でじっくり聞いてやる。……分かったから、腕を絡めてくるな。離れろ。」
「大丈夫です! 人の気配はありません!」
「……はぁ。」
好きにしろ。
マルチェロは心中でそう呟くと、エイトと並んで歩き出した。
そしてこれから一時間後、果たして自分に仕事に戻れる気力が残っているのか、と気鬱して大きな溜め息を吐いた。
そんな彼の後姿を見つめながら、エイトが、そっと呟きかける。
「……お前は根を詰めすぎて加減を知らないから、こうでもしないと休息しないだろうが。」
「何だ? まだ何か言いたいことがあるのか?」
「いや、何でもないです。あはは。少し待ってて下さいね。今、美味しいお茶を淹れますから。」
「……分かった分かった。適度に期待してやる。」
「うわ、冷めた物言い。マルチェロ~あんまり苛々すると、禿げますよ?」
「喧しい!」
「あはははは!」
マルチェロの叱咤を受け、エイトが苦笑しながら準備に取り掛かる。
妨害者はどこまでも小憎らしさを失わず、そうして真意を悟らせず。
ゆっくりと、強張った疲れを癒してやる。
ある雨の日、廊下での出来事。
こうしたエイトの仕事妨害は、日常茶飯事。
頑張れマルチェロ!