冷たい人の名を呼んで
蒼黒の契約 黄金の誓環 5
「――マルチェロ。」
広い胸に凭れかかり、その鼓動に耳を澄ます。
今は執務中でもなんでもないから、煩いことは言われない。訪問するものも来客もない。
何故なら、鍵を閉めているから。
ようやく訪れた二人きりの時間だ。誰にも邪魔などされたく無い。例え緊急の用件が舞い込んできたとしても、知らない振りを決め込もう。
もっとも、邪魔が出来るものなど居る筈も無いが。
緩やかな笑みを浮かべてそうして相手の胸元に縋りついていれば、頭上で笑う声がした。
髪に触れる感触。
「どうした。今日は、やけに甘えてくるな?」
「ふふっ……そりゃあ――ようやくの、二人きりですから。」
仕事なんて下の人間にでもやらせればいいのに、彼には自分が目を通しておかないと気が済まないのか、いつも自分で仕事を抱え込み、溜め込んでしまう癖がある。
だからこの部屋に来ると、エイトは必然的に手伝う羽目になるのだ。
いいや。
もしかすると、それはそのようにさせる罠なのか?
訪れた部屋で、先ず目に付くのがその机上の書類の山なのだ。
見ない振りなど到底出来ない。むしろ、その山で彼の姿が見えにくくなっている始末なものだから、エイトは机に近づき、「手伝いますよ」と言って書類束の一つに手を伸ばす羽目になる。
すると、そこで相手はいつも不敵な笑みを浮かべるのだ。
それでいい、とでも言うように。
自分の胸を掴む冷笑で以って。
ああ、やっぱり”罠”だ。
「狡いよな、マルチェロって。」
呟き、首から提げている金の刺繍が施された大司教布の隙間に、手を滑らせた。
そして心臓のある箇所に手のひらを当て、耳をそばだてる。
とく、とくと。
普通の鼓動。
早くもなく――遅くもない。
「なんだ……俺にときめいてくれてないのか?」
わざとらしくそんなことを口走ってみれば、相手が苦笑した。
「阿呆か。そんな年齢など当に過ぎている。――そういうお前こそ。」
今度はマルチェロの手が伸びてきて、エイトの胸に手の平を押し付けるようにした。
見下ろし、ニヤリと笑う。
「随分と落ち着いている。この平然たる鼓動はどういうわけだ?」
ゲームの始まり。
エイトは薄い笑みを浮かべる。
「ふふっ。これでも結構どきどきしてるんだけど。伝わらないのか?」
告げて、至極残念そうに――わざとらしいくらいにしおらしくして、相手の胸に凭れ掛かってみせた。
マルチェロが、哄笑する。
「ふ、ははっ……はははっ。よくも抜け抜けと。」
エイトの胸に触れていたマルチェロの手が、誘うように動いた。片手で首元の止め具を外すと、そのまま襟元から指先を忍ばせて、鎖骨を撫で上げる。
「この嘘吐きめ。」
冷たい手が呼び起こすのは、こちらの体内に潜む熱。
実に見事に誘いかけるその先にあるのは、毒すらも避ける甘い堕落。
――狡い人だ。
エイトは、くすりと笑う。
このままマルチェロに勝たせても良いが――それでは少々物足りない。
襟元を自ら大きくくつろげた。露わになる素肌。”遊ばせてあった”マルチェロの手をそっと掴むと、そこから服の下へと滑らせて、心臓にぐいと押し当てた。
「嘘かどうか、確かめればいい。言葉なんかじゃなくて……」
その状態から相手を見上げて、エイトは微笑みかける。
「――こうして、身体に。」
告げた言葉は意趣返し。
マルチェロが、僅かに驚いたように目を丸くした。が、直ぐにいつもの冷笑を湛える。
「フッ。そうくるか、全く……随分と淫らになったものだな?」
「ああ、そうだ。」
嘲弄を、エイトは否定しない。
「俺も進化したものだ。」
「ククッ。進化じゃないだろうが。」
二人して、昔のエイトを――忠誠心と役目に務めていた堅物な兵士を――思い出したのだろう、同じタイミングで笑う。
過去のエイトが今の自分を見たら、さぞ驚くことだろう。
それどころか、殺そうとするかもしれない。
――殺されてなんかやらないが。
エイトはこれ以上ないくらいに綺麗な笑みを浮かべると、マルチェロに縋りついて、そっと言う。
「俺が許すのは、お前だけさ。」
「どうだか……まあ、いい。身体に訊いてやるとするか。」
マルチェロは獰猛な笑みを浮かべると、上着を脱ぎながらエイトをゆっくり押し倒していく。
その首に腕を回してしがみ付き、エイトは囁いた。
「ふふっ……そうだな。存分に訊いてみせてくれ。」
相手が肌に唇をなぞらせてくるのを見下ろしながら、エイトはその陰で密やかな笑みを浮かべる。
手の届かない人だと思っていた。
やっと、やっと捕まえた。
今や彼の人は自分の主。
常に傍に居なければ許してくれない。
常に側に在らねば赦してくれない。
離してくれない。
離そうとしない。
掴んだ藁を離してしまえば溺れてしまう人のように。
そうだ。溺れてくれればいい。
もっと溺れろ、俺に。
「ふふっ……はは……あははっ……!」
マルチェロの髪を梳き上げながら喉を仰け反らせて笑うその姿は、最早囚われたものには見えず。
「お前は俺のものだ、エイト。」
「ああ、そうだな――」
後ろ髪を掴んで口付けたマルチェロの呟きに、エイトが目を細め――艶やかに、哂う。
――貴方こそ俺のものだ、マルチェロ。