冷たい人の名を呼んで
蒼黒の契約 黄金の誓環 7
控室には姫君しかいなかった。彼女自らが人払いをしたゆえに。
鏡台の前で両手を組み合わせ、項垂れている。何かに祈るような形で。
ふ、と。その唇から吐息が零れた。
「私は……これで良かったの?」
誰も居ない部屋の中で、問いかけるのは己自身。
「本当に、こうするしかないの?」
これまでに、何度自問自答したかしれない言葉を呟く。人に意見を聞いて回り、多くの書物を読んで考えたつもりだけれども、他に方法が思い浮かばなかった。
結果、他者の提案――計画に乗るしかなく、そうして迎えたこの日。最終的に自分で選んだものの、それでも彼女は迷っていた。
胸の前で組み合わせた手にぎゅっと力を込め、呻くように呟く。
「私はどうしたら良いの? これしか方法がなかったの?」
迷う言葉を重ね、祈るように俯く。
「誰か……教えて――」
「――それは自分で決めるしかないよ、ミーティア。」
優しい声がした。
ハッとして顔を上げれば、鏡の向こうに懐かしい青年の姿が写っている。
「エイト……!」
涙目で振り返った姫君は、色鮮やかなブーケを手にした青年の微笑みを見る。
「こんにちは。久し振りだね。」
「――っ、どうして……っ」
「どうして?」
エイトが首を傾げ、困ったように微笑む。
「招待状をくれたのは君じゃないか。」
「でも、貴方は――」
「ドレスが良く似合っているね。凄く綺麗だ。」
どこまでも柔らかな声と微笑で話しかけてくる青年は、本当に昔のままで――最後に見た微笑みのままで――語り掛けてくるものだから、ミーティアの瞳に涙が滲む。
その涙を見てエイトが眉を下げ、ゆっくりと近づいてきた。
「どうして泣いているの?」
指先で彼女の目尻に溜まっていた涙を掬いとり、穏やかに問いかけるその声に敵意はない。
「貴方がそれを訊くの?」
質問に質問で返した彼女は、膝の上で両手を握りしめてエイトを睨み付ける。
非難の眼差しに、エイトは苦笑を深めただけ。左手に持ったブーケを持ち上げて、彼女に差し出す。
「はい、これ。」
「これって……」ミーティアが目を瞠る。ブーケの花の全てが、自分が好きな色であり好みの種類のものばかりだったからだ。
「覚えて、いたの? ……覚えてくれていたの?」
再び涙を滲ませて問えば、返されたのは微笑。
「君の事を忘れるわけないだろう?」
「……っ。」
優しい眼差し、優しい微笑み、優しい声。
ミーティアは両手で口元を覆い、肩を震わせた。涙はますます滲み、今にも頬を伝い落ちそうなくらいになっている。
エイトはブーケを差し出したまま、柔らかな声で話しかける。
「ねえ。君が俺を呼んだのは、どうして?」
「……それ、は」
「祝って欲しかったの? ……だとしたら、ごめんね。俺は、君を――君たちを祝福できない。」
君たち、と複数形になった箇所のみを冷たい声でなぞれば、ミーティアがビクッと身を竦ませる。
「ち、がっ……違うの、エイト。」
「うん?」
怒りはすっかり潜められ、今は蒼褪めた顔でエイトを見上げて姫君は明かす。――明かしてしまう。仕組んだ手の内を。
「私と結婚すれば、大きな後ろ盾が出来るから。そうすればエイトを救い出せるって、ククール様が――だから、私は……!」
「……うん。そうだろうと思っていたよ。」
どこまでも柔和な姿勢を崩さずにエイトが頷き、懐から取り出した上等なストールで彼女の涙を軽く拭った。
それから上体を屈めて彼女と視線の高さを合わせると、にっこり微笑んで質問を投げた。
「ねえ。君は俺にどうして欲しいの?」
「どうして、欲しい?」
「うん。祝福されたかったの? 邪魔して欲しかったの? それとも――」
顔を近づけて、囁く。
「――攫って欲しかった?」
甘い甘い毒の蜜。
ミーティアが息を詰め、エイトを見つめる。
「わ、私……私は、」
胸の前で手を組み合わせたまま、彼女は身体を震わせる。
幼少の頃から、側に居た人。側に居て守ってくれた優しい兵士。
ずっと好きだった人。
なのにある日、全てを裏切り、全ての敵に回ってしまった。たった一人の為に。
”世界の敵”となったそれでも――今でも、こうして目の前にすると憎悪など抱く間もなく魅了される。
恨めない。嫌えない。
それどころか、今も好きで好きでどうしようもない、大切な――。
「エ、イ、ト……。」
「うん。」
「エイト、私、は」
「――俺と共に来るなら、君は忠誠を誓わないといけないよ。」
「……っ、私に、国を捨てろ、と……そう、仰るのですか。」
「忠誠を誓い、従属するなら捨てなくても大丈夫だよ。」
優しい声で、微笑みを浮かべた人が語るのは冷酷な言葉。
怖ろしく冷たく、なのにとても穏やかな声で、優しい眼差しで、ミーティアの理性に絡みつく。
「エイト、貴方は」
「ねえ。君はどうしたいの、ミーティア?」
問いかけられたのは最後通牒。
姫君は、綺麗な笑みを浮かべるかつての幼馴染を蒼褪めた顔で見つめる。
迷う姫君に、与えられる助言はない。譲歩も無い。
差し伸べられた見えない手。
だが、その手を取れば最後。望みは潰え、光は闇に沈む。
目の前に立つ青年は相変わらず微笑を崩さず、ただ彼女を見つめている。彼女が選ぶ結末を。
「わ、私はっ……」
祈るように胸の前で手を握りしめる姫君の瞳から、透明な雫が幾つも零れ落ちてストールの色を濃く滲ませる。
相手を選べば仲間を裏切ることになり、もう引き返せない。
――戻れなくなる。けれど、この手を取らなければ彼は行ってしまう。あっさりと。きっと、振り返ることも無く。
もう失いたくない。
……見失いたくない、この人を。
「――っ……!」
ごめんなさい、と。
彼女が声無く謝ったのは、何に対してだろう。
華奢な手が伸ばされ、掴んだのは希望――では無く絶望。
一瞬、家族や仲間たちの顔が浮かぶ。罪悪感と共に。
けれど彼女は、手を取った先で綺麗な微笑を浮かべた想い人を見ることが出来たので――そのまま優しく引き寄せられ、柔らかな毛布で包まれるように抱擁されたので、もう何もかもがどうでもよくなってしまった。
ごめんなさい、と。
今度は言葉に出し、か細い声で呟いた彼女の髪を、そっと撫でる手があった。
頭上から降る静かな声が、耳朶を打つ。
「大丈夫だよ。ミーティア。」
堕ちるのは俺だから。俺だけだから。
――マルチェロと共に墜ちていくのは、俺ひとりだけで良い。
子供をあやすような仕草で彼女の背をとんとんと叩くエイトの瞳に浮かんでいた狂気を、幸いにも目を閉じていた彼女が見ることは無く、気づくことも無く、ただ泣きたくなるような温かい抱擁に身を委ねていた。