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Drago di Isolamento -side:M-

10c. 浸透する支配率



それは、曇り空が鬱陶しいある日の昼下がりだった。
何だか妙にざわついた気配がするので、また何処ぞの馬鹿な金持ちが祈祷を受けに来たのかと思い、溜息を吐いて報告を待ち構えていた時だった。

――気配は、無かった。
何気なくドアの方を見れば、その入り口に佇む人影があってギョッとする。
反射的に引き出しの陰の剣に手が伸びた――が、赤いバンダナが視界に入り、「それ」が暗殺者で無いことが判明したので、その手は直ぐに引っ込めた。
見覚えがある。その名前は嫌でも思い出せた。

エイト。
愚弟を押し付けて、面倒ごとの合切を引き取らせた一行のリーダーだ。
寡黙なる氷の女神。冷徹な雰囲気を纏った孤高の青年。
いつ見ても気圧される、その瞳。
他の者たちは、先ず美貌のほうに意識をさせるだろうが、俺としてはその瞳が恐ろしい、と感じている。
何故、誰も気づかないのだろう?
あの瞳――深い闇色の煌きに、強い光をたたえた黒曜石に見詰められていると、得体の知れない感覚に支配されてしまうというのに。

そうだ――あれは、支配する瞳だ。
言葉で多くを語らずとも、視線だけで堕としていく何とも邪悪な目。
だが、誰も彼もが簡単に支配できると思うなよ。
青年――エイトは、まるで不遜な王が如く様で、黙したままコチラの動向を観察するように佇んでいる。
その瞳に押し負けぬよう気を入れて睨み返し、俺は質問を投げる。
何の用事でココに来た?
アイツの返品か、それとも俺の命か?
すると、戸口にて佇立していた寡黙なる女神は僅かに目を伏せた。

(……何だ?)
逡巡しているのか、それとも俺の質問が的外れだったのか。
とにかく、それでもなかなかに言葉を返そうとしなかったので、今度は苛立ちを込めて問う。

「動く石像の余興を見せに来たのか、貴様は。」
それは皮肉だったが、このようにすこぶる美貌の石像があったならば、幾多あまたの引き取り手が集うだろう。観賞用か、玩具用として。
「……。」
侮辱だと感づいたのか、エイトが顔を上げた。その静謐なる気配で室内の空気が塗り替えられていく。
流石に気分を害したか?
冷えていく空気を肌で感じながら、じっと相手の出方を待っていれば、艶やかな唇が言葉を吐き出した。

「……地図を。」
――地図?
言われて、まず思い浮かんだのは自分の背後に飾っている世界地図だ。
しかし、それがどうしたというのか。
目の前で、エイトの手が持ち上がる。その右腕が真っ直ぐに伸ばされたかと思うと、男にしては上品な指先が、スイと流れて。

「あの地図を――寄越せ。」

低く良く通る声が、室内を一閃した。
ドクン、と心臓が鳴る。叩きつけられたそれは、冷徹な命令だった。
絶対なる支配を持って否定を許さない、されども――何とも高潔な、声で。
漆黒の黒瞳が、俺の姿を捕まえる。
突きつけられた指先で、糾弾される。

傲慢な、命令が。
魂に、爪を立てて。

逃げることを――許さない。

ドクドクと早くなる鼓動は、決してこの青年に怯えたからじゃないと誰が言い切れる?
完全に捕らわれる前にどうにか視線を背けると――逃げたわけじゃない――席を立ち、壁の地図を引き剥がして丸めた。
これがあるからいけないんだという理由ではないが、ぐしゃぐしゃに破りたい衝動に駆られたのは、エイトに負けたと認めている己がいるからだろうか?

ともかく、激情を抑えつつエイトの手に地図を押し込んで、早急なる退出を願った。
背を向けて、「とっとと帰れ」と発した意思表示を、さて読み取ってくれたかどうか。
しかし、どうしたことかいつまで経っても背後の気配が動く様子を見せないので、何が不満なんだと怒鳴りつけてやろうと振り返った瞬間――。

まさか、そんな近くにいたなど思わなかった。
肩がぶつかり、僅かに仰け反った相手がコチラを睨みつけたようだったが、痛みで顔を顰めたその美貌は不思議な情欲を煽り――思わず手を伸ばし、その腕を掴んで。
床の上に、雪崩れるように倒れ込んだ。

仰向けに倒れた自分の体の上に、半ば馬乗りになった形で、氷の女神が圧し掛かっている。
転倒を防ぐために両手を床についたせいで、距離が近づいてしまっていた。
長めの前髪が垂れ下がり、コチラの頬をくすぐる。
冷えた美貌は何処までも美しく、冷徹な光を帯びた瞳が醜態を晒した俺を見詰めている。

「……。」
言葉が、出ない。
自ら喋ろうとしない相手の寡黙さを、このときほど苦痛に感じたことはない。
何を考えている?何を企んでいる?
焦燥に駆られ視線を流そうとしたが、ふと相手の胸元に惹きつけられた。
紐が――わざとそうしているのかは知らないが、解けかけている。そのせいで襟口が広めに開いていて、男にしては白く滑らかな肌が覗いていた。

眩暈。
理性が揺らいでいく。
自分の右手が、持ち上がる。

――俺は何をしようとしている?

間違いを、犯す――そんな時、ドアを叩く音がした。
ドアの向こうで部下の喋る声が聞こえたが、俺の意識は、肩越しに振り返り、ゆっくりと離れていくエイトの行動に釘付けになっていた。
もし、ノックが無ければ。
もし、誰もこの部屋を訪れなかったら。
俺はコイツに、何を。
しかしながら、こちらの狼狽を余所に相手は自分の用事ばかりを済ませて――地図をしっかりと手にして、部屋の出入り口に向かって歩いていく。用済みには用無しだと言うように。

「――待てっ!」
部下と入れ替わるようにして部屋から出て行きかけるエイトの背に、思わず投げたのは引止めの言葉。エイトが律儀に向き直り、冷めた眼差しで射抜く。お前に対する用事はもう済んだ、とでもいうように。
ならば――。

「――貴様は兵士だろう! 入室はともかく、退出の際の礼儀も欠けたままか。」
「……。」
叱責に虚を突かれたのか、女神は小さく息を飲んで俺を見つめた。
何がその心を引き止めたのかは知らない。けれど、効果があったのは確かな事実だ。
束の間コチラを凝視していた相手は、ふと視線を伏せて口を開いた。

「……緊張のあまり、最初から上手くいかなかった。すまない。」
そう言って、直角に身体を折り曲げ、頭を深々と下げて謝罪する姿はまるで手本のように美しかった。側でぽかんと口を開けて呆けている部下の間抜け面が、笑いを誘う。
緊張だと?
それは何の冗談だ。
苦笑が込み上げる。気持ちに生まれるのは、いつもの余裕。

「ならば、次に来る時はもう少しまともな礼儀作法を身に付けてからにするがいい。」
「……分かった。」
「ふん。それでいい。では、下がれ。」
調子が戻ってきたので、部下にするように片手を振って退出を促せば、エイトが顔を上げた。
未だ何かあるのかと眉根を顰めてやれば、相手、彼の女神は不意に相好を崩して。

「進言に、感謝する。以後、気を付ける……ありがとう。」
腹に響く艶やかな声でそう言うと、もう一度深々と頭を下げて、部屋から出て行った。
水鳥のように後を濁さず、流麗な足取りで去って。
その後姿を名残惜しげに見送る部下を叱責し、用事を済ませたら部屋には自分ひとりきり。
眉間を押さえれば、思わず溜息が零れた。

ありがとう、だと?
あんな顔をして言う言葉か。
あのように綺麗な笑みを浮かべ――子供のように嬉しそうな顔をして。

「……阿呆には勿体無い奴だな。」
どうしてそう感じたのかは分からない。
ただ、もう少しだけ話がしてみたい――と、一瞬ばかり思ってしまった俺は、密かに侵食されているようだ。